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  Date of infamy! 恥辱の日
                        

  
ハワイ諸島                                                                                
     
  
              〈現在のヒッカム飛行場内の司令部と壁に残る弾痕 2008 8 5 〉
 
   
           (ford island に残る管制塔〉   
  
  
         〈ホノルル市内からバスに乗る〉
 
    
      〈当日なら何度でも乗れる便利なチケット)

 
  
     〈カフクポイントに近いsunset beach〉 

 
         〈そこにいたアザラシ〉 

  
       〈アザラシに対する注意書き〉 

第二次攻撃隊167機は、第一次攻撃隊が発艦した1時間15分後に発艦を開始した。この攻撃隊の特徴は、急降下爆撃機が78機(第一次攻撃隊は51機)を占めることである。この急降下爆撃機は高度4000㍍から急降下し、狙いを定めて高度400㍍で250キロ徹甲爆弾を投下するわけである。従って命中度が高いことが特徴である。

しかし、その日本軍にも不安はあった。米軍機の迎撃を恐れていたのである。米軍機が素早く対応して飛び立てば、多くの日本軍機は餌食となるわけで、それを防ぐために日本軍は、真っ先にオアフ島にある5つの飛行場を攻撃する綿密な計画を立て実行した。
 計
78機の零戦戦闘機が、爆撃機を護衛すると同時に飛行場を襲っている。また、第一次攻撃隊では51機の急降下爆撃機の全てが飛行場の攻撃を任務とし、第二次攻撃隊では54機の水平爆撃機(火災の煙等を避けるため)の全てが飛行場を攻撃することになった。
 先に紹介した真珠湾の中島であるフォード島の飛行場には、戦闘機の機上掃射の他に
53発の250キロ爆弾(27発という説もある)が投下され、70機ほどの米軍機のうち30機前後が破壊された。

現在のフォード島は、飛行場としては使用されておらず、当時の管制塔が悲しげに建つ荒涼とした島になっていた。そしてコンクリートの地面には、所々に攻撃の跡が残っていた。

フォード島の対岸にある「ヒッカム」飛行場にも、日本は執拗な攻撃を加えている。ヒッカム飛行場にはこの日、60機ほどが待機していた。そこに空襲中に本土から到着したB1712機加わる。

 戦闘機の他に44機(36機という資料もある)が60キロ爆弾を計108 発、250キロ爆弾が53発投下されたことになっている。特に第二次攻撃隊の水平爆撃機27機が、集中的に爆撃している。米軍機は35機ほどが破壊されている。

現在のヒッカム飛行場は、ホノルル国際空港に隣接し一部は共用しているようだ。現在も司令部などの多くの建物が林立し、特別の許可での訪問となった。
 ここで驚かされたのは、無数に残る建物の壁の攻撃の傷跡である。機銃掃射の跡だけではなく、爆撃による様々な破片が建物の壁を傷だらけにしていた。壁一面に、攻撃の傷跡がそのまま残っていることに驚かされた。

パールハーバーの北30キロほどのところにある「ホィラー」飛行場は、真っ先に攻撃をうけている。  
 私が「カフクポイント」に向かうために乗った(810日)路線バスは、その「ホイラー飛行場」の脇を通過した。現在も米軍基地となっているが、辺りはのんびりとした雰囲気であった。
 攻撃の日、第一次攻撃隊のうち
25機の急降下爆撃機が250キロ爆弾をそれぞれ投下した。ここには約200機の戦闘機がずらりと並び、90機ほどが破壊されたという数字がある。

 日本の第一次攻撃隊は空母を発艦した後、現地時間730分に、オワフ島北端の「カフクポイント」に到達しているが、そのカフクポイントとはいったいどんなところだろうか。カフクポイントそのものには何もなく、第一道すらないが近くへは行くことが出来る。
 
 私は
89日に一人路線バス(2ドル)に乗った。途中「ホィラー」飛行場を過ぎ、オアフ島の北海岸が見えると「ハレイワ」の村である。

 美しいビーチが続き、カフクポイントの近くに「サンセットビーチ」という景勝地で私は、バスを降りた。土曜日ということもあり、白い砂浜は海水浴客でビーチは賑わっている。海岸に動物が横たわっている。近づくと、臨終を間近に迎えたアザラシmonk sealである。「こんな南国の浜辺にアザラシとは」と思いながら空を見上げる。この空を、67年前第一次  攻撃隊が通過したことを想像してみた。その後「カフク」の村にも下車してみたが、何もない静かな集落であった。

日本軍が、重油タンクなどの陸上施設やドッグなど艦船の造修施設を攻撃しなかったということは、港の機能そのものには大きな損害がなく、破壊された艦船を取り除きさえすれば、港の機能そのものは短期間に回復することができた。
 また「アリゾナ」や「オクラホマ」の様に、完全に破壊された艦艇は少数で、多くの艦艇は修復されて現役に復帰した。

逆にアメリカは、参戦する「大儀名文」と国民の戦意高揚を得ることができ、戦略的にはアメリカの敗北とは言えない所以がここにある。

アメリカは承知のように41年3月から日米交渉等の、日本の暗号電報を解読していた。ただ軍事作戦に関わる暗号の解読はまだできなかったと言われている。しかし、当日の攻撃を首脳部が事前に知っていたと考えるのはかなり自然であろう。しかし現地の司令官には、伝えられていなかった。

最後に、この日の犠牲者をまとめておこう。日本側は合計350機(765名)が攻撃に参加し、そのうち29機(第一次攻撃隊9機・第二次攻撃隊20機)がもどらなかった。特殊潜行艇は、参加した5隻全てが破壊され9名が死亡している。(酒巻和男が日本人捕虜一号となった事は有名)

アメリカ側は2403名が死亡し、1178名が負傷した。他に一般市民49名が死亡しているが、これはすべて日本軍機に向けられた米軍の対空砲火の流れ弾が市民にもたらした被害であるという。

この日オアフ島にあった約400機の米軍機のうち約40機が飛び立ち、そのうち10機は日本軍に撃墜されたが、12機の日本軍機を撃ち落としたという記録もある。

 こうして、アメリカにとっての「Date of  infamy   恥辱の日」は終わった。
 
  
            〈南国らしい風が吹く〉                      
                                〈カフクポイント近くにはモルモン教団の施設が、彼女たちから私も勧誘を受けた) 


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