HOME>Palau                                              Babeldaob>Palau >Augu〉2009



                    
飢餓地獄 パラオ本島Ⅰ                                  


  
バラオ共和国                                          北海道新聞十勝版にて連載         
      
    
                 〈かつての清水村があった現在のバベルダオブ島内部 2009 8 15〉
 
 
 
             (菱岡チカコさん〉   

  
             〈空襲を受けるコロール島〉

   
   〈その当時のコロール小学校6年生 中央にチカコさん〉
  

「食べ物が不足してきて、主食はカタツムリになったんです。キノコや芋の葉と一緒に煮て食べました。味噌も塩も無いので、海水で煮るんです。一晩かけて海岸に海水を取りに行くんです。トカゲも食べましたよ」そう語るのは北海道帯広市の菱岡チカ子さん(77)である。

 チカ子さん一家は、1936年、現在の北海道鹿追町から移民としてパラオ本島(現バベルダオブ島)の「清水しみず村」に入植した開拓農家であった。

 レンタカーで訪問した現在の村の跡地は、小高い丘の上に広がっていた。近年やっと舗装道ができたが、村の跡地の大半はジャングルの中に埋没している。地元の人々に「何も残っていませんよ」と言われたものの、丹念に車を走らせてみるとかつてのパイナップル工場(地元人はタピオカ工場と言っていたが)と思われるコンクリートの土台が残っていた。

 大戦末期パラオの中心コロール島やパラオ本島には、民間人と日本兵計五万五千名が取り残されていた。
 米軍がペリリュー島に上陸した後、民間人は密林の多いパラオ本島のあちこちに小屋を建て、避難生活を始めることになった。米軍の上陸はなかったものの終戦までの約一年間、米軍の包囲網の中で物資も人員の補給も完全に途絶えていた。

 チカ子さんたちの生活も、「山の木を切り出し、兄が家を建てたんです。半年は暮らしたと思います。何もない原始生活でも、蚊帳だけは必要でした。靴もなくなり、裸足の生活です。泥棒なんて居ないですよ。盗るものがないんですからね」
 米軍が上陸してきた場合、集団自決などの指示はなく「岩山に隠れることになっていましたよ」。これだけが救いのようである。

 しかし「父親が兵隊にとられましたが、栄養失調で大和村の(兵站)病院に入院しました。近くで避難生活をしていたので、何度か見舞いに行ったんですよ」。病院と言っても掘っ立て小屋に、何の治療もされず患者は寝かされているだけであった。「百人位はいたかな。もともと痩せ型の父だったんですが、体がむくんできたんです。歩けるうちは面会所で会い、配給になった自分たちのサツマイモを食べさせたんです。そのうち父は歩けなくなり、もうだめだと思いました」

 父駒形輝正さんの死は終戦直前の1945年7月23日とされている。「父親だけじゃないんです。六歳の妹も、亡くなったんですよ」チカ子さん。

 私は、駒形輝正さんの亡くなったかつての大和村を訪問した。大勢の村人が集まっており、私はチーフ(酋長)の前にとうされた。チーフは「あなたの言うヤマトというのは何ですか」と言う。彼らは何も知らない。私は65年前の出来事を、彼らに話した。   

  

      
  〈空襲によって、チカコさん一家はコロール島北部の洞窟地帯に避難した〉     〈かつての大和村に住む人々〉 

        
           〈バベルダオブ島〉                          〈清水村に近いマルキョックの海岸〉

                             BEFORE〈〈          〉〉NEXT
   
                       
inserted by FC2 system