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飢餓地獄 パラオ本島Ⅱ                                  


  
バラオ共和国                                          北海道新聞十勝版にて連載         
      
   
             〈浮田キクさん 現在のものと終戦当時のもの〉             〈沈没したサイパン丸〉
 
 


 
         (ガラツマオ村入り口〉〉   


  
          〈三井鉱山の跡が広がっている〉


  
    〈ガラツマオ小学校 校門が日本時代のままである〉
  

「カタツムリは、一年以上食べたと思います。食用マイマイと呼んでいました。始めは角が出ていて、髪の毛が逆立つほど気味が悪かったんです。石で殻をつぶし、灰で揉んで滑りを取りました。鍋で幾度も煮ないと危険です。やがて軟らかくなり、肉のようになるんですよ」そう語るのは、札幌市にお住まいの浮田キク(87)さんである。

 キクさんは先にパラオに渡っていた夫勝蔵さんと北海道美唄市で挙式をあげ、43年7月にパラオ本島北部のガラスマオ村に向かった。
 戦局は悪化し二人の乗った南洋航路の新鋭船サイパン丸は、たちまち米潜水艦ハダック号にパラオ北方千キロで撃沈された。「昼間だったので、私たちは助かったんです」。35名が死亡したという記録がある。

 ガラツマオ村はボーキサイトを産出し、夫勝蔵はその三井鉱山の幹部宿舎で料理人をしていた。   

 翌年44年2月に長男が生まれたが、入れ替わるように夫勝蔵は現地召集されてしまう。この地区の現地召集者は、独立混成第53旅団(六千名)に編成されている。勝蔵さんはその第349大隊に配属となった。

 同時に軍の指示で、キクさんは会社の関係者とともにジャングルでの避難小屋生活を始めた。「パラオに渡った時から、食料は足りなかったんですよ。ネズミも食べましたよ。焼く前に皮を剥ぎ内臓を取ります。醤油に浸して、焼いて食べたんですよ」キクさん。

 軍の食糧管理も厳しかった。「30代の男性が、食べ物を盗んだとされて、水攻めの拷問を受けてしまったんです。会社の所長さんに頼み、助けて貰ったこともありました。私自身もうっかり憲兵隊の畑に近づいていまい、疑われて防空壕に監禁されたこともありました」

 そして、餓死者が出始めた。「お医者さんの奥さんが、亡くなりました。私も足がふらふらしました。サトウキビを見つけて齧ると、母乳がでましたね。やっと終戦になり、夫が避難小屋に帰ってきましたが、ガリガリに痩せていました。夫は料理人でしたから、死なずに済んだんですよ。ガラスマオの食糧配給所をこじあけて食料を手に入れましたよ。今考えると、泥棒ですね。その後米軍が来て、缶詰・バター・チーズが美味しかったことを覚えています」。

 私がこのガラスマオ村を訪問したのは、8月13日である。強烈な陽射しに眩暈がしたが、かつて日本人が建てた多くの建物もそのまま残っていた。売店の若い女性に当時の出来事を話すと、目を丸くしている。

 近くのボーキサイトの積出港も、同様にかつてのままである。誰もいない港内には魚が群をなし、平和そのものであったが、埠頭の運搬用ケーブルの土台には米軍機の攻撃の跡が痛々しく残り印象的であった。

  
パラオ本島
 現在のバベルダオブ島。ミクロネシア全体でもグアムに次ぐ面積を有する。パラオ本島とも呼ばれ、縦40km横11kmのパラオ最大の島。
 日本統治時代には、清水・大和・瑞穂・朝日の日本人村が作られた。太平洋戦争では、日本軍将兵約5千名が餓死し、その後の遺骨収集も熱帯雨林に阻まれている。現在の人口もわずか約2千人。
   

  
    
        〈ガマツマオ集落の売店の人々〉                   〈ガラツマオの積出港 誰もいない〉 

      
           〈積出港に残る運搬用ケーブル 銃撃の跡が残る〉            

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