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玉砕も許されなかった島 ペリリューⅡ                                  


  
バラオ共和国                                          北海道新聞十勝版にて連載         
        
                 
                    〈大山陣地にある最後の司令部の入り口と内部 2009 8 11〉
 
 
 
           (思わず手にした手榴弾〉   

  
              〈人骨と思われる〉

  
       〈米軍の慰霊碑。背後の景色に見覚えが〉
  
  
       〈この風景に間違いない。しかも〉〉

 最後の戦闘司令部の洞窟は密林の中にあり訪問客も希で、窟内は外の暑さを避けることができるものの、完全な闇の世界であった。 
 周囲にも、無数の洞窟がある。私はそのいくつかに入って見た。水を蓄えるためのドラム缶や、夥しい数の「大日本」と書かれた空き瓶が散乱している。手榴弾や使用されなかった砲弾もそのまま残っていた。持ち上げてみると、どちらもずしんとくる重さである。
 私はある洞窟で、暗闇の中丹念に地面を手でなぞってみた。そして、人骨らしい小さな骨を二つ見つけた。小動物さえいない島であるから、やはり日本兵のものであろう。

 このペリリュー島は、正確には軍上層部から「簡単に玉砕してはいかん、最後まで抵抗しろ」と、「玉砕さえ許されなかった島」である。サイパン・グアム等で、守備隊が短期間に「玉砕」してしまった反省に立って、このような命令が出されていた。兵達は食料・水・武器弾薬・医薬品の不足に悩まされながら戦い続けた。

 日本軍は、昼間は洞窟に潜み、夜間次々と決死隊を送り出し米軍を悩ませた。手を焼いた米軍は洞窟陣地にナパーム弾を落とし、そしてホースでガソリンを注ぎ込んだ。想像を超える攻撃である。こうして、多くの兵士が焼き殺されたのである。

 最も必要なものは、水である。この島には川と言えるものはなく、沼が一つだけあった。「清水池」または「グリントン池」と呼ばれた沼に、夜間日本兵は命がけで向かった。もちろん米軍は照明と機関銃を備えて、待ち伏せていた。たちまち池は、日本軍兵士の遺体で埋まっていく。しかし「どうせ死ぬなら、水を腹一杯飲みたい」と、やってくる日本兵は後を絶たなかった。意外なことにその池が、現在も残されていた。現在はオタマジャクシで埋まっていたことが、印象的であった。

 その池の前に車が一台止まり、現地の婦人がいた。私がこの池のことを説明してあげると、ただ笑っているだけであった。ここでも現地の人にとって「あの戦争」とは、「勝手に日米が戦争して、勝手に死んでいっただけ」に過ぎないのであろう。

 生き残った日本兵は二百名あるいは四百名に過ぎない。2年半洞窟に潜んだ34名が、最後の生還者とされている。彼らの潜んでいた洞窟が残されていた。そばに湿地帯があり、その水を利用していたことが分かる。その34名のうちの一名が、釧路市に生還している事が分かり、私は丹念に探した。奥さんが電話口で、「確かにうちの主人です。もう亡くなりましたが、生前戦争のことは一言も話しませんでしたよ」誰にも語ることのできない理由が、あったに違いない。戦争とは、実に惨い

 

   ■ペリリュー島

 日本から南に3400キロ。南太平洋にあり、太平洋戦争末期1万人の日本軍兵士が「玉砕」したことで名高い。南北10キロ東西3キロほどの小さな島に、500あまりの洞窟陣地が作られ、硫黄島同様上陸してきた米軍を誘き出して撃破する作戦がとられた。
 二ヶ月に渡って抵抗した日本軍に米軍は手を焼き、1600名の死者と7千名を越える負傷者を出した。米側にとってもこの島は、「真珠湾」「硫黄島」に続く太平洋戦争の聖地とされている。

   


     
   〈しかも写真に写っているグリントン池〈清水池〉が残っていた〉 〈港のそばにある水戸山洞窟陣地跡 千人洞窟と呼ばれている〉 

    
        〈内部には迫撃砲弾 大量の空き瓶が残っている〉             〈まつたくこの図のとおりの内部であった〉

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