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       満山さんの沖縄戦終結と与座集落
           
                  
   
 
沖縄県糸満市                                                     
        
  
                     サトウキビ畑に囲まれた与座集落。2005 6 10〉

       
 
 
  
   〈満山さんと橘正敏さん 2005 5 帯広市で〉
 
      
         〈当時の橘正敏さん〉

   
             〈伊敷栄幸さん〉  
  
   
             〈金城幸徳さん〉  

   
              〈賀数義弘さん〉  

    
    〈海軍司令部壕に展示されている賀数さん親子
                               の写真〉  



 10
1日ころ、再び米兵が満山たちの洞窟(ヒージャークワックワッシガマ)内に入ってきた。満山が狙いを定め小銃を発射したあとには、点々と血が落ちていた。

「今度こそ、米軍の報復にやられる」と満山は考えた。前田と飴谷は、もう自力では脱出できないほど衰弱していた。やせ衰えた身体は歩くことも出来ず、用を足すことも出来なくなっていた。
「脱出は、無理だ」不安と緊張のうちに夜になり、
「今夜が最後になるなら、食料を節約することもあるまい」と、満山たちは白米を炊き缶詰も好き勝手に食べたいだけ食べることにした。夢にまで見た満腹感を、三人は味わった。 三人の覚悟は、決まっていた。

「一人でも憎いヤンキーを、殺してから死のう」と話し合い、作戦を練っていた。その時不意に、
「おおい!」と怒鳴る声が聞こえた。真夜中の12時を過ぎた時刻なので米軍とは思えなかったが、三人は銃を構えた。意外なことに、日本の歌を歌いながら姿を現したのはローソクを持った一人の日本人であった。体格のよい男で、三人のように痩せてはいなかった。
「話があるんだ。これから、本当のことを話すから落ち着いて聞いてくれ」と前置きをして男が話し始めた内容は、まったく寝耳に水の「戦争終結」の内容であった。

「戦争が、終わった?」
「本当か?」満山は、本気になれなかった。
「我々は、終戦を知らずにいる仲間たちに、早く知らせようとしてこうして探しているんだ」と、男は力説した。
「日本軍が全然姿を見せないで、戦争が終わるわけがない。この男、どうも怪しい」満山は、ある噂を思い出した。日系二世のアメリカ人が、敗残兵を騙して捕虜にしていることを。
「こいつはその仲間かも知れない。よし殺してしまえ」
 満山は、黙って男に銃を向けた。男が逃げ出せば、もちろん引き金を引いたことだろう。ところが男は、一瞬顔をこわばらせたものの、自信ありげに言った。


「俺だって、最初は信じなかった。どうだ、俺の背中に銃を突きつけて一緒に来てくれ。もし嘘だったら、撃ってもいいぞ」彼の、真剣な眼差しとこの態度に、三人の心は動いた。こうして、三人は洞窟をでることになった。

この三人を説得し、壕から救い出したその人物が現れた。実に北海道帯広市にお住まいの、元見習い士官であった。名は橘政敏さん。当時山三四八三部隊(輜重兵)に属していた。911日に米軍に収容された後、930日まで宣撫班に入って投降しない日本兵達への説得に当たっていた。この日付を考えると、満山たち三人が収容されたのは9月中と言うことになる。

「宣撫班」は5人一組で10組編制され、合計240名の日本兵を説得することに成功したという。この日、与座岳近くの米軍キャンプは大騒ぎになっていた。キャンプを抜け出した二名の兵士が、戻らないという。二名の米兵は、禁止されていた洞窟内にはいり記念品を漁っていたわけだ。周りの米兵達は騒ぎ出した。入り込んだらしい満山達の洞窟を爆破し、中の日本兵を皆殺しにしろと言い出した。

「私達が、必死に止めました。私達に任せてくれと頼みこみ、三人で歌を歌って中に入ったのです。アメリカ兵は、二名とも死んでいました」 橘政敏

こうして満山凱丈の沖縄戦は、終了した。飴谷一等兵も満山とともに、翌年郷里に戻ることができた。しかし、前田一等兵は台風の夜、押しつぶされた捕虜収容所のテントの下敷きになって死亡している。なんと言うことで、あろうか。

戦後、満山凱丈さんは30回近く、沖縄に足を運んできた。遺骨の収集にも、何度もたずさわった。遺骨を発見しても、その身元を割り出すことはきわめて難しい。兵士であれば認識票があるはずだが、認識票は兵士から事前に取り上げられていた。
「当初は、物資不足を補うために真鍮でできている認識票で、銃弾の薬莢(やっきょう)でも作ると思っていたんですが、本当の軍上層部の狙いは別のところにあったんですね。死亡した兵士の認識票から、参加部隊の詳細が米軍に知れることを防ぐために、兵士から認識票をあらかじめ取り上げたんです」

いったい兵隊を何だと思っているのか、今更とはいえ憤りを覚える軍上層部の判断である。こうして、20万人以上の犠牲者が沖縄の地に眠っている。

与座(よざ)集落

私達が満山さんと戦後二度目のージャークワックワッシガマに入った午後、現地の与座集落の体験者の方々のお話を聞く機会を得た。
 昭和7年生まれの伊敷栄幸さんは、町はずれにテントを張っていた雨宮中将をよく見に行ったという。

「普段はハイヤー(自家用車)に乗っていましたが、馬に乗って村にやってきた事をありました」彼も、壕掘りの仕事に随分と駆り出されたという。戦火が激しくなると、国頭に疎開したが、
「母親だけは村に残って軍の炊き出しの仕事に当たりました。そして爆死しました」戦後村に戻ったが、美しい松の林は消え、毎年きていた渡り鳥の姿もなくなったという。郷土の姿は、変わり果てていた。

金城幸徳さんは現在87歳、当時は召集後石垣島に送られマラリアと闘っていた。昭和20年末に沖縄本島に戻ったが、そこが本島とは上陸したあとも気がつかなかったという。
「とにかく真っ白なんです。何もかも」全てが焼き払われていて、白いサンゴ礁の地肌がむき出しになっていたわけである。

 無論沖縄の大地以上に、人々そのものが被った被害は甚大であった。日本軍の第24師団戦闘司令所が置かれた与座岳周辺は、南部の中でもまさに血で血を洗う激戦地だった。与座岳の北側にある与座集落では、疎開しないで残った民間人は735名、そのうち426名が亡くなったという。

当時小学校3年生だった賀数義弘さんは、
「私は子供でしたから、軍刀を下げた雨宮中将をよく見に行きました」戦闘が始まると民間の壕に隠れていたが、米軍の直撃弾で何人も死んでいった。父親と南端の摩文仁の丘に逃げた時、米軍の攻撃を受け弾が右足首を貫通し負傷した。賀数さんは
「おやじにかつがれて、今も私は生きとるのです。今思うと、三日三晩飲まず食わずでよく生きていたなと思います」当時は爆音で、耳がまったく聞こえなくなったという。

伊敷栄幸さんは、
「戦後すぐは、沖縄言葉でカンダバーというイモが異常に大きくなっているんです。要するに人間の遺体が肥料になっていたんですね。やっぱり最初は、気味悪くて人々は食べない。それでも当時食べ物がなくなれば、われ先にと争って食べましたよ。戦後、そうした状態があったことを知ってほしい」会場はシーンと静まった。何百体という無数の遺骨は昭和24年、与座の人々の手によって丁寧に葬られた。

隣村の東風平村富盛地区も同様な有様であった。八重瀬岳の中腹に穴を掘って避難していたが、68日ころ兄と母を亡くしている川端光善さん(昭和10年生)は語る。
18歳の兄は、爆風で即死でした」彼の住んでいた富盛(ともり)が焼けてなくなったのは、米軍が上陸した41日であった。やはり飛行機がガソリンを蒔き、そのあと焼夷弾を落としている。
「私達の村は、たった4時間でなくなったんですよ」。
  
      
          十勝毎日新聞 2005 6 18

  

     
      
                            〈川端光善さん      この日の参加者〉

      
                     サトウキビ畑に囲まれた与座集落。2005 6 10〉

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