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        ひめゆり学徒と宮良ルリさんⅠ
           
                  
   
沖縄県糸満市                                                     
        
   
           〈伊原第3外科壕の真上にある「ひめゆりの塔」と講演していただいた宮良ルリさん 2005 11〉

 


 
        〈後列右から二番目が宮良さん〉

       

  
   〈映画の中で西銘のぶ子が石垣島に戻ったシーン〉

  
      〈オリジナルの「ひめゆりの塔」は小さい〉

   
     〈語る宮良さん 2006 11 の講演 
             北海道本別高校修学旅行 〉  
  
   
           〈こちらは 2005年度の講演〉 

   
             
 〈2006年度の講演〉

  

     〈映画の中の「ばかもん 足は・・・」のシーン〉
        

 白梅学徒については先に紹介したが、有名なひめゆり学徒の場合はどう
だったのだろうか。多くの著書があり幾度も映画化さ
れているので、詳しく述べることは避けるが、観光客が必ず訪問する「ひめゆりの塔」の真下に実は大きな洞窟がある。
「伊原第三外科壕」と名付けられたこの洞窟での出来事が、もっとも凄惨でまた象徴的な出来事として印象深い。

 昭和203月米軍の空襲が始まると、沖縄師範学校女子部、県立第一高等女学校の生徒と引率教師237人が、看護補助のため動員されることとなった。彼女たちが戦後、「ひめゆり学徒隊」と呼ばれていくわけである。

宮良(旧姓守下)ルリさんは、「ひめゆりの塔」の真下にある壕(第三外科壕)から生き残ったひとりである。昭和20年6月19日米軍から壕にガス弾を投げ込まれて、職員・生徒48名中たった5人の生徒だけが生き残ったその中の一人である。
 95年制作の映画「ひめゆりの塔」では、西銘のぶ子がルリさんをモデルとしているようだ。宮良さんの講演と著書「私のひめゆり戦記」から、ルリさんの体験を紹介したい。

宮良ルリ(敬称略)は、石垣島の出身である。石垣島は、沖縄本島から447キロメートル離れた八重山群島の中心にあり、黒潮の流れに囲まれたとても美しい島である。

大正15年8月生まれのルリは、昭和8年に高等小学校に入学し、太平洋戦争の始まる年の昭和16年4月に沖縄本島に出て、運命の沖縄県立女子師範学校一部に入学している。
「当時、石垣から那覇までは船の便しかなく、二泊三日かかりました。船酔いで胃の中のものをすっかり吐き出し、へとへとになって下船したのです。那覇の町の人と車の量に驚きました」

生活は、全寮制であった。三十畳ほどの部屋に沖縄第一高女と女子師範の生徒が一緒に入って、一部屋12名ずつであった。
 寮の消灯は、夜の10時であった。試験が近づくと時間はいくらあっても足りず、生徒たちはトイレの豆電球の下に何人かで立ったまま勉強したり、押し入れの中で蒲団を被り懐中電灯で勉強したりしていた。

沖縄戦の始まる前年の昭和19年の7月、夏休みを迎えてルリたちは石垣島に帰省することとなった。
「舎監の岸本先生が、戦争になりそうだからもう学校に戻らなくてもよいと言ったのです」。そう言われても、ルリは当時のさしせまった事態をすぐに認識できたわけではなかった。近海にはアメリカの潜水艦が出没し、石垣島行きの船はなかなか出航しなかった。
 荷物を満載しやっと出航した船の中には材木が積まれ、魚雷が当たった時にはその材木につかまって泳ぐように指示された。ルリたちは、ごろごろ転がっているその材木の上で眠った。

石垣島に戻ると、「学校が戻らなくてもいいと言うならよかったね、台湾にでも疎開しようか」などと、家族で話し合った。
「ところが9月になると、スグ帰校セヨとの電報が届いたのです」一回目の電報は無視したものの、二回三回と電報が届いた。ルリの母は、「戦争で死ぬときは親子一緒に死のう。子供は手放せない」と帰校に反対した。

教員を養成する当時の師範学校は、官費である。生徒たちは国から一ヶ月25円のお金をもらって、学校に通っていたわけである。もし学校に戻らなければ、支給された官費を返せと学校は言ってきた。ルリは、四年の長期間すでに支給を受けていた。返すとなると、当然莫大な額になる。

それは父亡きあとの母一人の力では、とうてい返せる額ではなかった。しかも、卒業まであとわずか一年であった。更に学校に戻らなければ「非国民」になってしまう当時の状況は、ルリを帰校へと決心させた。

こうして石垣島から那覇に戻ったのは、昭和19年の9月下旬であった。定期船はすでになく、フィリピンに兵隊を運んで帰る8千トンの大型輸送船に乗り込んだ。
 船団はなかなか出発せず、一週間くらい島の沖合に停泊したあとこっそりと出航した。鰹節・米・鮫よけの白いサラシ布(約三メートル)・小刀・麻縄などの沈没した時のための七つ道具を持たされ、救命胴衣をつけたまま甲板に寝かされることになった。無事那覇に着いたが、緊迫した港の様子にルリはただならぬものを感じた。学校に戻ると校舎の半分は軍が使用し、更に生徒たちにも勤労動員が科せられた。

もはや、勉強どころではない。小禄(ころく)飛行場の、排水溝掘りに就いた。もんぺ姿で炎天下大きなツルハシで、自分の背丈よりも深い溝を掘らされた。それは、重労働であった。
「小休止」の声がかかると、ルリたちは崩れるようにその場に座り込んだ。その他にも、軍の陣地構築や食料増産の畑仕事にも動員されていく。こうした生活が続いている最中に、10月10日を迎えている。この日は、那覇市内の大半が焦土と化す「10・10空襲」の日である。

ルリたちも、当初演習だと思って那覇市内の様子を眺めていた。「四五日して、学校で救援隊をつくり市内に入ったのです。那覇では、床下に防空壕を掘ったところが多かったのです。焼夷弾で家が燃え、逃げ遅れた人たちはその下の壕の中で蒸し焼きになったのです。遺体に触れると、音もなく崩れてしまいました」

学内で「決死隊」が組織されたのも、そのころであった。ルリは「炊事決死隊」にはいり、署名した後に拇印をした。昭和20年1月22日、とうとう学校も空襲に襲われた。死者がでて、「コンクリートの壁に、飛び散った肉のかけらが張り付いていました」

学徒出陣壮行会

昭和二十年に、学徒出陣が開かれた。勉学中の学生には徴兵延期が認められていたが、もはやそれも許されなくなり、入隊させられることになっていく。
 その時八重山出身の生徒は現地入隊になるので、同郷の女子師範の生徒たちで壮行会をしてくれないかと野田貞雄校長からすすめられ、初めて公然と男女が会合を持つこととなった。

 ルリたちは敷布団カバーで千人針を作り、お守りなどを準備した。

「小遣いを出しあい、下級生は農家をまわって料理の材料集めをしました。上級生は腕によりをかけて自慢の料理をこしらえ、首里にいた本科一年の宮良永則さんの下宿で心のこもった壮行会が開かれました。 その時本科二年の宮良英加(みやらえいか)さんが、お札の言葉をのべました。
 英加さんは成績も優秀で短距離の学校代表選手でもあり、本当にすばらしい青年でした。
英加さんのお礼の言葉を聞いて、場内はしーんと静まりかえりました。今日は、大変ありがとうございました。
 私たちは入隊
することになりましたが故郷に帰ることもなく、息子を戦場に送る親の言葉を聞くこともなしに出陣することを考えると、残念でたまりません。しかし、この壮行会を開いていただいて、私たちの気分もいくらか紛れました。入隊するにあたり、一つ話しておきたいことがありますと前置きしました。
 私は徴兵検査が繰り下げになって19歳から入隊しなければならないということを聞かされたとき、頭の先から爪先にかけて、鉄の棒をつきさされたようで、非常に残念でたまらなかった。師範学校に入学したからには、一度は生徒を教えてみたかった。
 年老いた両親が一枚の卒業証書を待ちこがれているのに、それを見せることもなく、勉学の途中で入隊しなければならないというのは非常に残念でならない。しかもいったん戦場に出たからには生きのびて帰れるとは思えない。女の人は男子より助かる機会が多いから、生き残ったら必ず伝えてほしい。戦争は非情なものだ。

 どんなに勉強したくてもできない。したいことが、まだまだたくさんあったのに。戦争のない時代に生まれたかったということをのちのちの人に伝えてほしいとしめくくったあと、八重山地方の踊りを舞いました。 戦争が終わったあと、初めて英加さんの言葉が私の胸の奥深く残っていたことに気づきました。全出陣学徒を代表して決意をのべたのも、この方でした。
 英加さんは、その後沖縄戦で傷を負い、南風原陸軍病院に運ばれてきました。右手をやられ切断しなければならなくなった時、軍医殿、手は再生できないでありますかと毅然として聞いていたそうです。

 ばかもん、きさまは学徒兵のくせして、それぐらいのことがわからんのか。手が再生できるもんかと、どなられたと聞きました。手を失うことはどんなにかつらかったことだろうと、思います。英加さん重症というほどではなかったようですが、戦場などで多く発生するガスエソ菌が傷口から入り、その菌がからだにまわって、頭まで侵されてしまいました。
 アッバー、アッバーと八重山方言で母親を呼びながら亡くなったということです」。

     
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