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         ギーザバンダと南義雄さん
           
                  
    
沖縄県糸満市                                                     
        
  
             沖縄平和祈念公園から見たギーザバンダ海岸。当時は死体があふれていた〉

       

 
         馬上弘一さん〉
 
 
             〈ぐししゃん海岸〉

 
  
 
             〈ぐしちゃん海岸〉  

 

 
  〈BSドキャメンタリー「沖縄戦 地獄」の撮影。2005 5 31
   北海道足寄町で 満山さん 南さん 牧野さん〉〉


        十勝毎日新聞 2005 6 22
         
 


 結局指揮をとっていた平沢少佐たちと話し合い、武装解除の形で投降することになった。
「毎日のように犠牲者が出ていたけどね、その時は40名ほどいたんだよね。武器を持ちながら道路を歩き、米軍に発見してもらったわけだよ。困ったことになったね。私がね、米兵が残したカービン銃を持っていたからね。大勢アメリカ兵を殺したと、思われたんだよ」

結果的に事なきを得たが、こうして南義雄の四ヶ月に亙る沖縄戦はやっと終了した。戦後南さんたちは、沖縄で遺骨収集を行っている。
「ヘビが怖いのでね、いつも遺骨収集は冬にしていましたよ。もう収集し尽くしてしまってね、近頃は行ってないね」しかし、その遺骨収集は19回にもわたっている。


65日ころ東風平分院を脱出した南義雄は、その後どのような体験をしていくのであろうか。与座岳に後退した第三中隊に戻った南義雄は、ここで一ヶ月ぶりに生き残った戦友たちと再会している。中隊の生存者はすでに30名程度になってしまい、三つの分隊に分かれてすぐさま夜間の斬り込み攻撃が実施された。

アメリカのM4シャーマン戦車相手に、素手で挑むような戦いではそれは無謀でしかなかった。結局は生き残りの戦友鈴木昭一(北海須美瑛町出身)相沢龍男(宗谷出身)らとともに、摩文仁方面へさらに南下していく。
「以前陣地を作って土地勘のあるギーザバンダという海岸を目指したんだけどね、摩文仁の向こうの大渡(おど)に出てしまったんだね」

海岸には、敗残兵とともに民間人もあふれていた。毛布にくるまっていた子供を、踏みつけてしまったこともあった。その子供たちは親を失い、途方にくれていた。夜間の行動は、足を負傷している南にとっては大変な苦行でもあった。いつしか、仲間とはぐれてしまいある洞窟に入った。中にはすでに、二人の地元出身の兵がいた。疲れ果て三人とも眠ってしまったのち、ふと気がつくと昼間のはずなのに、入り口が暗い。そっと入り口にむかうと固いものが、入り口を塞いでいた。それは、キャタビラであった。つまり米軍戦車が、入り口を塞いでいたのである。出口を失った三人は、死を覚悟した。
 洞窟の天井から落ちる水滴を交代で口にし、ヤドカリを見つけて口に入れてもみた。そして三日あまりたった後、戦車は移動し脱出することができた。

 すでに六月の下旬になり、沖縄戦は終了していた。砲爆撃もなく、掃討作戦の自動小銃の音だけが聞こえる。海岸は、避難民であふれていた。南が齧って吐き捨てたサトウキビのかすを、避難民の子供たちが拾って食べる。
「本当に可哀想でね、残りのキビを子供にあげたんだよ。母親がね、何度も頭を下げていたね」

こうして一人きりで歩く海岸で、奇跡的にはぐれた相沢・鈴木両名と再会することができた。かつての上官瀧沢曹長も一緒で、総勢9名のグループとなった。とても心強くはなったが、アメリカの掃討作戦は本格化してきた。
「投降を呼びかけるデテコイ、デテコイの放送のあと、出てこないと海岸に火をつけると言って、海岸にガソリンを流して火をつけるんだよ。焼け死ぬ兵隊が、本当にいるんだ」

 そんな状況の中で民間人は次々と投降していったが、将兵たちは投降するわけにはいかなかった。9名は、沖縄北部の国頭方面への敵中突破を考えた。

「そんなの、無理に決まってるんだよね。アメリカは、待ち伏せしてるんだよ。島の東西を横断するようにバラ線を張って、待ちかまえているのさ」そのバラ線を前に、海岸の上の台上で一行はたちまちアメリカ軍の張ったピアノ線に引っかかり銃撃を浴びた。

「親友の相沢が、やられたよ」その日の日中は焼け野原の台上に穴をほり、焼けたサトウキビを被ってアメリカ兵をやり過ごしたという。
「そばをアメリカ兵が通るのを、じっと見ていたね。暑かったよう、真夏の太陽を浴びてね。その後すぐに、軍服を捨てて民間人の服を着たんだよ。海岸には衣類などがいくらでも散乱していたから、拾って着たんだよ」

そのギーザバンダの海岸は、現在の具志頭村周辺に展開している。「本当のギーザバンダはね、もっと向こうだよ」 展望台で私に指を指しそう教えてくれたのは、具志頭村の馬上(まじょう)弘一さんである。当時9歳だった彼は、島北部の山原(国頭)地区に疎開し無事であった。
「でもね、村にもどったら馬小屋だけを残して全部焼け落ちていたんだよ」展望台の下には、美しい海岸が広がっている。
「ぐしちゃん浜」と名付けられた海岸は、現在も多くの御霊が眠る聖域とされている。

  敵中突破

 民間人になりすました南義雄たちの一行は、北上した。戦闘はすで終了し、基本的にはすべての地域が米軍に占領されているわけで、そこを米軍の少ない島の北部を目指して、夜間の移動が開始された。

東風平街道を進み、新城(アラグスク)の集落あたりで夜が明けてしまった。いくつかの集団に分かれて、草むらに身を隠すことになった。彼は、瀧沢曹長と民間人の酒本ユキの三人で小さな窪地に身を隠していた。うとうとといつの間にか眠り込み、気がつくと米兵の気配がする。

すぐそばまで米兵がやってきて、空を見上げている。彼は、こんなに身近に米兵を見たのは初めてであった。米兵は上半身裸で胸毛が黒々と生え、顔は真っ赤に日に焼けて赤鬼のようである。米兵は一行に気がつき、ピストルを向けて身構えた。
「私たちの服装と女性の酒本ユキを見て、民間人と思ったんだろうね。私たちを捕まえようと、仲間を呼び始めたんだよ」

そこで南は、素早く米兵に手榴弾を投げつけ、爆発のあと悲鳴が聞こえたが、その後どうなったかは分からない。瀧沢曹長が「逃げるぞ!」と言い、拳銃を撃ちながらそこから逃げた。南は、もう一発手榴弾を投げつけた。

丘の上に上がると、米軍のキャンプが立ち並んでいるのが見えた。南は、「これはまずい」と思い、一人分かれて壊れた民家のそばの小さな竹藪に飛び込んで、身を潜めた。たちまち大勢の米兵が現れて、掃討作戦を開始した。そばの家屋に機関銃が撃ち込まれ、火がつけられた。
「暑くてたまらなかったけど、竹藪は燃えずに命拾いしたんだよ」激しい銃声が、あちこちから聞こえた。この時の戦闘で、南は仲間の瀧沢曹長・酒本ユキ・鈴木昭の三人をいっぺんに失ってしまった。

「戦後二〇回ほど沖縄を訪問しているんですが、酒本ユキちゃんの親類とも会いしましたよ。亡くなった場所なんかを、知らせてあげたね」
 酒本ユキは、当時わずか一七歳の少女であった。再びひとりぼっちになった南義雄はその後別の集団に入り、やはり島北部を目指した。富見城という集落では、一週間を過ごした。空き家になった民家に入り、久しぶりに家屋の中で過ごし食料も手に入れている。

 その集落の五日目に、米兵が姿を現した。自動小銃を乱射したが、水浴びで遊んだ後は何事もなく戻っていった。その後南たちは津嘉山あたりに移動したが、ある壕では手榴弾攻撃を受けた。五・六発投げ込まれ、南は胸のあたりに破片を受けて軽傷を負った。
「その直後洞窟に、二人の日本兵が入ってきたね。球部隊の平沢重一少佐と、沖縄出身の比嘉少年です。しかし次の日、やはり米軍が来たんだよ」
 一行は、夜が明けると危険な壕からはすぐに出たが、疲れ果てた平沢少佐と比嘉少年は、そのまま壕の中に残ってしまったという。出口のない壕は、危険である。米兵が入ってきた時に、比嘉少年は手榴弾で応戦したが、たちまち撃ち殺されてしまった。
 この勇敢な比嘉少年の手榴弾攻撃に米軍は、一丁のカービン銃をその場に残し退散した。外でその様子を見ていた南は、そのカービン銃を16歳の比嘉少年の形見として手にした。 南上原あたりの、出来事である。

 そのころ、ある夜祝砲があがった。8月15日だったのであろう。それからは、ますます米軍の投降を呼びかける宣伝は激しくなった。
 8月20日ころ一行は、西原町の新垣周辺にたどり着いた。どこも、米軍のキャンプがおびただしく建てられていたが、意外なことに一歩山の中にはいると、かなりの数の日本兵と民間人が潜んでいた。夜になると、炊事の煙が数多くあがったという。

 これは、米軍の封じ込め作戦であった。一定の地域に敗残兵を集めて包囲し、一挙に掃討作戦と投降をさせようというものであった。その掃討作戦で多くの犠牲者を出した後、
「ある日仲間の一人が米兵に捕まって、石川の捕虜収容所に連れて行かれ戻されてきたんだよ。彼はね、捕まった兵隊たちは野球をやったりしているというんだよ。そして食事がいいのか、みんな太っているというわけさ。米軍は三日間の猶予を与えるとも、言い出したね」

     
   
                  〈BSドキャメンタリー「沖縄戦 地獄」の撮影。2005 5 31 北海道足寄町で〉

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