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            運玉森の死闘Ⅱ                
                
                      
                      
                
                  
        
  
               〈沖縄平和祈念公園「平和の礎」には十勝管内922名の名が刻まれている〉

       
 
 〈運玉森で負傷した南さん。NHKBSドキュメンタリーより〉

       
             〈当時の南さん〉

 

   〈新里堅進作「白梅の碑」にも登場する南さん〉

 
      〈高校生に体験を語る南さん 2005 10〉 
                  十勝毎日新聞
      


 
        






  〈北条さん〉


 
     〈南さん北条さんが負傷した小波津集落〉

 
          〈そして運玉森高地の現在〉


    


 運玉森はでは死闘が続いていた。近隣の「小波津」の集落で、同じく負傷した兵士がいた。現在北海道足寄町にお住まいの南義雄さん(大正
11年生)である。所属していた歩兵第89連隊第1大隊は、他の第89連隊の部隊と同様にこの時期運玉森で米軍と対峙していた。


428日に運玉森について、430日の夜に私たちの第3中隊は夜間攻撃に出たんです」前日の429日、この第一大隊は歩兵第32連隊と交代した。待ちに待った初めての戦闘で将兵は、張り切っていた。
「小波津(こはつ)の集落に、入っていったんだよ。足音がしないように、靴を脱ぎ地下足袋をはいていたね。すると突然照明弾が、あがったんだよ」米軍は、待ち伏せをしていた。迫撃砲が撃ち込まれ、激しい撃ち合いとなった。

「西島曹長と敵の後ろに回ろうとしたら、目の下に黒人兵が二人いたんだよ。自動小銃の弾が耳をかすめると、曹長がばったり倒れたんだ。曹長が手榴弾を投げると、黒人兵は逃げて行ったね。私は、曹長を引き摺って戻ったんだよ。始めは気がつかなかったけど、自分の地下足袋を見て驚いたね。右の足先が裂けて、小指がなくなっていたんだよ」

現在も、彼の右足の小指はない。次々と重傷者が、運ばれてきた。背中から肛門に小銃を撃ち込まれた、置戸町出身の兵士。睾丸を撃たれ、「殺してくれ」と叫ぶ士別市出身の兵士。

この夜、第三中隊の七〇パーセントが戦死し、小波津西側の第一線は米軍に占領されていった。負傷した南義雄(敬称略)が運びこまれたのは、ひめゆり部隊で有名な南風原陸軍病院であった。
「タンカに乗せられて運ばれたんだけど、156歳の防衛隊の少年たちが肩からロープでタンカを手に縛りつけ歩いて運んでくれたんだよ。本当に彼らのおかげで、私は今こうしているんです」

2000名以上を収容した南風原病院は、すでに満員であった。壕内から次々と死体が運び出され、近くの畑に葬られていく姿が見える。数時間がたち30人ほどの患者が集まったところで、3台のトラックがやってきた。彼は、2台目のトラックに自力ではい上がった。

艦砲射撃の炸裂する中、ライトを消してトラックは進む。到着まで残り300メートルというところで、先頭のトラックに艦砲弾が炸裂した。目の前でトラックごと患者も、吹き飛ばされてしまった。人の命はまさに、紙一重である。トラックを捨て、たどり着いたのは東風平であった。

五月四日の総攻撃  

満山は、両目の激痛に耐えられず両手で目を押さえて洞窟内を転げ回っていた。そして、とにかく水が欲しかった。天井から水滴が、ポタリポタリと落ちていることに気ついた。その水滴を、口に受けようと頭を動かし、水滴の落ちるあたりに口を移動させていく。何十秒かの後、水滴が落ちたのは耳のあたりであった。こうして何度も失敗を繰り返した後、やっと待望の一滴が口中に飛び込んできた。
「水だっ!」             
 口をあけたまま、水滴が受け止める時間が続いた。ある日夥しい数の負傷兵が洞窟内に運び込まれ、身動きできないほどの超満員になった。後に、「五月四日の総攻撃」による負傷兵であることを知った。

満山は負傷した日から十日も経ったように感じていたが、実は二日しか経っていなかったのである。 満山凱丈が負傷した直後の54日に、日本軍は総攻撃を実施している。

この運玉森での総攻撃に同じく第89連隊から参加し、奇跡的に生還した兵士の一人に北条輿四郎さんがいる。 
「とにかく迫撃砲がすごいんです。迫撃砲の絨毯攻撃です」
 米軍は座標の目のすべてを潰すように、つまり日本兵のいるすべて
の地面に迫撃砲弾を撃ち込んだ。炸裂するたびに金属片が四方に飛び散り、それが兵士の肉体に刺さり込む。北条輿四郎の近くでも迫撃砲が炸裂し、彼の体は吹き飛んだ。気がついたときには、周りは死体だらけであった。

「私の中隊(第3大隊第10中隊)は約200名だったのですが、総攻撃の前にすでに40名ほど戦死していました。この日の攻撃に私は3個分隊42名を引き連れて、小橋川付近に出撃したんです。起きようとすると、右足の太ももと左足そして左手に大けがをしていました」

昭和204月から6月の間に、日本軍は幾度か大規模な反撃を展開した。46日の菊水1号作戦から622日の10号作戦まで、10度にわたり総攻撃が行われた。
 54日午前450分、日本軍は一斉に砲撃を開始しこの作戦は開始された。砲撃の閃光を隠すために煙幕をはり、午前中に約1万発の砲弾を米軍陣地に撃ち込んだという。

この54日のものは菊水5号作戦にあたり、航空機の特攻攻撃も参加した。本土から航空隊が飛び立ち、沖縄周辺の米軍船舶に突入していった。そのおかげで、早朝は米軍に打撃をあたえ日本の作戦は順調にいくように思えた。

「実は、この砲撃は同士討ちになってしまったんです。第1大隊(丸地大隊)の移動が、約束の時間よりも早かったからです。私たちの第3大隊(約9百名)と第1大隊(約1千名)が、二手に分かれて運玉森方面からこっそり闇に紛れて、米軍陣地に近寄っていったのです。私たちは午前3時ころから接近し、夜明けと同時に突撃する予定でした」

一面はサトウキビ畑がひろがり、砲撃のための穴だらけであった。「ピアノ線が張られていて、日本軍がそれに触れると花火が上がる仕掛けがされていました」日本軍の行動はたちどころに、知れてしまった。

午前8時ころから、第89連隊は右、第22連隊は中央、第32連隊は左からそれぞれ進撃した。しかし北条輿四郎の周りは、突撃どころではなかった。四六時中砲弾が炸裂し、確実に死者が増えていった。
54日の日中は、米軍との撃ち合いが続きました。私たちは、九九式の単発銃で撃つんです。120発ずつ弾薬を持っていました。米兵の姿がすぐ近くに見えるんです」

日本兵は地面に釘付けとなり、長い一日を死と隣り合わせで過ごしていく。この日米軍は、本格的な反撃に出なかった。より近くまで、日本兵を誘き出す作戦をとっていた。手元まで近づけておいて、5日未明に紹介した迫撃砲の砲撃を浴びせたことになる。

「負傷したのは、午前530分ころだと思います。すぐには、気絶しなかったんです」北条輿四郎は何度も意識を失い、気がついてはまた気を失うことを繰り返している。
「夢を見たんですよ。家に帰って家族全員で楽しく食事している夢や、満州の風景の中で花畑と川があるんです。三途の川だったんでしょう。周りの兵隊には、俺を置いてみんなについて行けと言いました。どうせ死ぬんだとも、言いました」

彼は正気に戻ると、死体の海の中に一人だけ置いてけぼりを食っていることに気がついた。友軍は、撤退したのか前進したのかもわからない。夜になると、米軍の照明弾があたりを照らし、そこに一人の兵隊が現れた。彼は、ゲートルで自分の腕をつり負傷していた。北条は、彼に声をかけた。
「同じ中隊の、新町一等兵でした。彼も、足の指が二本なくなっていました。それくらいは普通です。無傷な者などいませんよ」

こうして6日未明、北条輿四郎は新町一等兵の肩をかりて、丘になっている運玉森まで後退することができた。この総攻撃は、その後は米軍砲兵の独り舞台となっていった。翌5日も日本軍の攻撃は続いたが、損害は増大するばかりであった。
 この54日の総攻撃で、北条輿四郎の第10中隊は壊滅していた。生存者は、わすが十数名になっていた。

「実は私は遅く後退したおかげで、助かったのです。というのは、片足を失った和田大隊長は負傷兵を集めて肩を組み、爆薬を爆破して数十名で集団自決したんですよ」

大正11年北海道新得町に生まれた北条輿四郎は、19歳の時に国鉄に就職。昭和17年に旭川の歩兵第28連隊に入隊後、満州の東安に送られ歩兵第89連隊第2大隊に編入されていく。その後沖縄に送られ、昭和20417日からこの運玉森五四高地で、アメリカ軍と53日まで死闘を繰り返していたのである。
 後退した北条の右足の傷には、蛆が沸いた。
「蛆は、膿を食べてくれるんです。そのままにしておくと膿は皮膚を溶かしてしまいますから、蛆は必要です」傷は激痛を伴い更に北条には、後方に下がる許可がなかなか出なかった。

「負傷している私に、上官が指揮をとれと言うのですよ。513日ころにやっと、担架で運ばれたんです。早く死にたかったですよ、あまりの激痛にねえ。担架に乗せられたんですが、砲撃のたびに投げ出されてしまいました。それから、トラックに乗せられたんです。東風平や南風原の病院に寄ったのですが、どこも満員で入れてもらえませんでした。それで、第二与座までさがったんです」この第二与座患者収容所では、化膿止めの塗り薬が施された。
「蛆が、沸かなくなりました。しかし、洞窟の中は暑くて、褌一つでしたよ。褌すらなく、素っ裸の兵隊もいましたよ。しかしそこも529日に米軍が迫って、撤退命令が出たんです。動けない者は、処分されるんです。私は、もう動けないから殺してくれたと言いましたよ」

夜になり、彼は最後の力を振り絞って洞窟からはい出した。
「命令系統も、なくなりました」彼は815日の終戦も知らず、二ヶ月の洞窟生活を続け投降していく。3大隊第10中隊208名で生還したのは、2名のみである。 


      
           〈西原町にある第89連隊丸地大隊の慰霊碑と第89連隊全体の慰霊碑 2005 6 11〉

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