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            運玉森の死闘                                                      
                        満山凱丈さんの沖縄戦Ⅰ


                
                  
        
 
                    〈現在の運玉森  周囲はゴルフ場になっている〉

       
    
        
 
 
 
      〈運玉森での満山さんと十勝毎日新聞  

  
              〈米軍の上陸


 
          〈満山さんが砲撃した場所〉  
  
 
          〈ここに向かって砲撃した〉  
 

 現在年間500万人の観光客を迎える沖縄は、年中旅行者で賑わっている。美しい海と空、優しい沖縄の人々、そして「悲しい歴史」。その明暗が、本当の「沖縄」の姿である。
 沖縄戦の死者は、20万人を超えている。日本の兵士10万人、アメリカの兵士1万人、そしてもっとも多かったのが沖縄で幸せに暮らしていた10万人以上の一般市民である。

 沖縄戦の特徴は、はじめから日本が「本土決戦の時間稼ぎ」と位置づけて決戦を避け、「捨て石」にされていたことと、民間人が戦闘に巻き込まれたことにある。
 昭和2041日の米軍上陸から、日本軍は首里高地に防御線を引くが次第に圧倒され、522日に撤退を決定。その結果、沖縄の住民と敗走する日本軍兵士が入り乱れ、沖縄本島の南部「島尻」方面に追いやられていった。

その過程で引き起こされた悲劇は、数知れない。623日に日本軍司令部が崩壊し組織的な戦闘が終結するまでに、無差別爆撃、日本軍兵士による住民殺害、集団自決など、悲劇のほぼ全てが起きたのである。
 沖縄戦での日本の兵士の死亡率は、実に95パーセント。沖縄県民の四分の一も、犠牲となった。何のために、人々は戦わなければならなかったのか? 時間稼ぎでしかない「沖縄戦」。「沖縄戦」は、決して繰り返してならない「究極の戦場」であった。


 (うん)(たま)(むい)の死闘

水が、飲みたかった。
「水っ!」 「水を、くれっ!」 「水を、くださいっ!」あちこちから、怒鳴る声がする。洞窟内は、騒然としていた。

満山凱丈(みつやまよしたけ)も、水が飲みたくてたまらなかった。体が、乾いてしまったような感じだった。そのうち、誰かが水を持ってきてくれたようだ。水を求める声が、また一段と高くなった。彼は一度怒鳴ってみたが、頭が割れそうに痛むので、声を出すのをやめてしまった。

「だめだ、だめだ。そんなに飲んだら、血がでてしまうぞ」水の主は、衛生兵らしい。負傷すると、無性に水が飲みたくなる。体の水分が奪われ、肉体は生命を維持するために水を欲するのだから。

両眼に包帯をされて真っ暗闇になってしまった満山(敬称略)は、仰向けに寝たままであった。そのうちやっと飯盒の蓋を握らされ、ヤカンから水が入れられた。
「この野郎、しっかり持ってろっ!」いきなり怒鳴られた。水が手を伝わって、肘を流れていく。

浅い飯盒の蓋に注がれた水は、起きあがって飲む時には、一口ほどしか残っていなかった。しかし、うまかった。そしてもっと飲みたかった。頭が痛くて、たまらなかった。頭の中で、火が燃えているようだった。
 何時間たったのか何日過ぎたのか、分からなかった。
「治療だっ!」突然,肩を叩かれた。洞窟内の医務室に連れて行かれ、包帯が取られると、ローソクの光が矢のように目に突き刺さった。軍医から、左眼球が露出し脱落したこと、右目は爆風にやられていることが知らされた。沖縄本島、運玉森の洞窟での出来事である。

  五月二日

 弾薬は、40発。
「あんまり、撃つな」の指示のもと満山は、四一式山砲の照準眼鏡をのぞくために、じゃまな鉄兜は脱いで足下に転がしておいた。沖縄本島の最前線「運玉森(うんたまむい)」で、たった一門だけの砲撃を開始したのは、昭和2052日の午前2時ころである。

満山の所属した第24師団(山部隊)歩兵第89連隊の連隊砲中隊は、この日連隊の各地に散らばっていた。そしてこの時はたった一門で、米軍の野営地に向かって砲撃を始めた。
「撃てっ!」号令とともに、砲口を少しずつ右に回しながら、満山は撃ちまくった。米軍の応戦も、すぐに始まった。一発撃てば100発撃ち返される米軍の物量は、圧倒的であった。   

20発くらい撃ったであろうか、砲を発射した瞬間、満山の目前で敵弾が炸裂した。満山は丸太ん棒で、頭を殴られたような衝撃を受けた。真っ暗な深い井戸に、真っ逆さまにどこまでも落ちていくような気がした。血だらけの顔に目の玉がぶら下がったまま、彼は同じ部隊の大塚に背負われ運ばれていった。
 こうしてこの日、彼は左目を失った。そして砲撃を受けた部隊は、壊滅した。170名ほどで構成されていた連隊砲中隊で、生還した兵士は満山ただ一人である。

    沖縄へ

満山凱丈さんは現在北海道上士幌町にお住まいであるが、福島県で誕生したのは、大正12年のことである。7歳の時に、一家は開拓農家として現在の上士幌町に入植している。
 昭和192月に旭川で入隊したあと、歩兵第89連隊の宿営地満州国東安に送られた。玉砕するサイパン島に、連隊の618名が送られた直後である。そして8月には運命の沖縄に、連隊から2876名が送られていった。そしてそのうちの2680名が沖縄で戦死し、生還したのはわずか196名である。

「沖縄だけは、玉砕しない。いや、絶対に勝つ」満山たちはそう信じていた。沖縄本島への米軍の上陸から、3週間が過ぎていた。
 この激戦地「運玉森」は、現在那覇市近郊のゴルフ場になっていた。私達が訪問したのは、どんよりとした梅雨空の200569日のことである。標高158㍍の丘陵地帯に陣取った満山さんの部隊は、ここから下に見える米軍陣地に向かって闇夜の砲撃を開始したわけである。

日本軍は直ぐ南にある首里の司令部を守るために必死であったし、米軍もその司令部の裏側に回り込もうと考えていた。
「下に森のようなものが見えますが、あのあたりが小波津の集落で私達はあそこに向かって撃ったんです」満山さんは語る。距離にしてもわずか2キロ足らずの、目と鼻の先であった。
「負傷したのは、どこですか?」
「そこですよ」満山さんが指さした先は、私達の立っていた場所の直ぐそばであった。
 
「目の上の骨に弾の破片が当たって、左目を失ったんです」

「私は当時、その小波津の集落に住んでいたんですよ」隣でそう話し始めたのは、現地を案内してくれた西原町在住の玉那覇三郎さんである。昭和16年生まれの彼は、当時わずか3歳であった。
 当時32歳だった玉那覇三郎の父は、現地の沖縄防衛隊の一員としてすでに召集を受けていた。16歳から45歳の沖縄県の男子は、ほぼ全員が召集されていた。

 戦闘が始まると、母は三郎さんを背負い兄の手を引いて逃げた。
「私はあまり覚えていないのですが、そばにいた二つ上の兄は米軍の艦砲射撃で亡くなりました」
 玉那覇さんの住んでいた津の集落はこの日の激しい攻撃で、全家屋が焼失している。小波津集落637人の戦死率も、54パーセントに上った。一家全滅も、20パーセントと言われている。


           
        〈運玉森での玉那覇さん 十勝毎日新聞〉  

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