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         東風平分院解散と青酸カリ                                  
                      こちんだ
                            
 

                                                       
        
  
                        〈ここがヌヌマチガマの入り口〉

       
 

 
    〈かつての東風平分院があったと思われる地点〉

  
           〈現在の南さん〉

  
   〈新里堅進作「白梅の碑」にも登場する南さんの
                        目撃した兵長〉〉

  
       〈譜久山ハルさんの証言は衝撃的である〉
      十勝毎日新聞 2005 6 16
 

 
         〈ガラピ壕の入り口の看板0〉 
                 
 

 
             〈ガラピ壕の内部〉 
 
 

    

左目を失った満山凱丈は、顔面と左頭部が腫れ上がり、火のような熱と激痛で頭がどうにかなってしまいそうであった。米軍の砲弾が炸裂する中を、幾度かトラックに乗せられた。そして地下壕のかなり広い病院に、たどり着くことになる。
 東風平の、野戦病院であった。58日ころと考えられる。収容されていた負傷者がまだ少なく、幸運なことに一日2度ほど治療がなされ、右の視力が少しずつ回復してきた。

 眼球のなくなった左目の方はまだまだ腫れがひどく、冷やす水がない洞窟内で彼は粘土質の壁に頬を押しつけた。冷たい土の肌触りだけが、とても気持ちよかった。
 しかし、負傷者が少なく治療がなされたのはつかの間であった。やがて前線から続々と負傷者が送り込まれ、地下壕の両脇に設けられた三段の棚には、負傷者がびっしりと詰め込まれた。治療は、手足の切断などの重傷者に限られ、彼が再び治療を受けることはなかった。

 壕内は苦しみ、うめく声が満ちていた。ある日、満山の反対側の棚に、同じ中隊の兵士が収容されてきた。彼は、砲弾の破片が両頬を貫通し、針金で下顎を上顎に縛りつけてある。
「山道っ、満山だ、わかるかっ?」満山は、彼の名を呼んだ。
山道はかすかに、首を動かした。山道は話すことも食べることもできず、細いゴム管が口の中にはいり何かを流し込んでいた。

 衛生兵も女学生看護婦も、重傷者の手当と次々と死んでいく兵隊たちの死体処理に寝る暇もなかった。死体は、夜になるのを待って運び出された。山道も、二、三日後にはいつの間にか冷たくなっていた。

 雨季に入り、壕内はひどい湿気に悩まされた。真ん中の通路はぬかるんで泥田のようになり、苦痛にあえぐ重傷者たちが、棚からこの泥田の中に落ちた。そこでもがき回るものもいれば、そのまま死ぬ者もいた。

 ある日、壕内でものすごい爆発音がした。負傷兵が苦しさのあまり、手榴弾で自決したのである。本人はもちろん、周りの負傷兵たちも巻き添えを食って死んだり、傷を増やしていったこの事件の後、すべての武器が患者から取り上げられた。

 左目を失った満山凱丈の運び込まれた東風平分院の食事は、卵ほどの大きさのにぎりめし一個が、毎朝支給されるだけであった。腹が減ってしかたがない満山は、グラマンが消える夕方になると壕をでて食料を探すことにした。視力は完全でなくとも、手足が自由なことは幸いした。畑に残っているキャベツを拾い、左目を冷やすために使ったあとは、胃袋におさめた。

彼が込まれたのは、東風平分院である。「分院」ということは、本部がある。本部は同じ東風平にある「第24師団第一野戦病院」である。第89連隊は第24師団に所属するわけだから、彼が運び込まれた事もつじつまがあう。ここは県立第二高等女学校の生徒で構成された「白梅学徒55名」が看護婦として活躍した病院としても、有名である。「東風平分院」が開設されたのは五月初旬であるから、満山が運び込まれたのは、開設後すぐということになる。

 430日に負傷した南義雄も、この東風平分院に運び込まれていた。「中は、本当に真っ暗だったね。松ヤニや山羊の脂を、灯りとして使っていたんだよ。その油煙で、看護婦もみんな顔なんて真っ黒だったよ。下の世話だってここではなくてね、動けない者はみんな垂れ流しだったね。入り口に、木を二本並べた便所らしいものがあっただけだよ。
 ものすごい湿気に、汚物や死体や膿の臭いで本当に大変な状態だったね。洞窟だからね、水なんてないんだよ。患者たちが、看護婦水を持ってこいと大騒ぎしているんだよ。飯ごうの蓋をたたいて、水を求めるんだよ。そして看護婦は、命がけで水くみに行くんだね。毎朝、卵くらいの大きさの握り飯が二個配られるだけだったよ。私のような少し動けるものは、外に出てサトウキビをかじったね。軍医が、食べると化膿が進むと止めたけどそんなこと言ってられないよね」

もちろん、そんな壕内も患者はあふれていた。看護婦が患者たちにもっと奥に詰めるように命じるが、蒸し暑く凄まじい臭気が湧いてくる壕内には誰も詰めようとしない。
 壕内は水浸しで丸太のような大木が並べられ、その上を橋のように人々は歩いた。奥からは、患者の苦しむ声と生ぬるい悪臭が、はき出されてくる。
「雨期になって、水があふれてきたね。便所があふれて、雨水と一緒に壕内を逆流してきたよ。そんなころ、気の狂った兵長がいたんだ。どこにも怪我をしていなくてね、大声を上げて暴れるんだよ。困り果てた衛生兵たちが、丸太の檻を作って隔離するようにしたんだよ。その兵長は閉じこめられたまま、その逆流する水の中で寝ているんだよ。結局は、青酸カリの注射をされたんだよ」まさに地獄の光景が、繰り広げられた。
ここに配置された正看護婦は、わずか二名であった

看護婦の体験したもの

その正看護婦の一人が、譜久山ハルさんである。彼女は現在那覇市にお住まいであるが、当時17歳の彼女は正看護婦として、この東風平分院に送り込まれていた。
 20056月那覇市内の自宅を訪問した私に、堰を切ったように話し始めた彼女の話は衝撃的であった。

「他の部隊の兵隊は、絶対に病院に入れませんでしたよ。どんなにひどい怪我でもね、山部隊(第24師団)の人しか入れなかったんです。あまりにも忙しくて、一日一日が早かったんですね」

軍医が軍曹とともに沖縄の老人二人にスパイの疑いをかけ、殺害した出来事を目撃している。ある日、二人の老人が黒砂糖と芋をそれぞれ売りに来た。老人達は、共通語を話せず、それを見ていた軍医は、
「あいつらは、スパイだ!」と言い出した。

そして衛生兵の軍曹に、壕の中に縛り付けるように命令した。二人の老人は両手両足を縛り付けられ、更に軍医は日本刀で斬ることを軍曹に命じた。日本刀など、簡単に切れるものではない。
「何度も斬ったと思います。方言で叫んでいました」ハル

そして五月下旬、日本軍の南部への撤退が始まった。東風平町南部の八重瀬岳にあった第一野戦病院本部に、解散命令が出たのは64日であった。そして東風平分院が解散したのは、南義雄の記憶でもこの4日から5日にかけてであった。
「突然渡辺中尉が、壕に入ってきたんだよ。そして、敵が300メートルまで近づいていると言うんだよ。そして一時間後に解散になったんだ」南 義雄

無論、歩けるものだけが病院から避難することになった。分院にいた譜久山ハルにも解散と、重症患者を「処置」するという信じられない命令が下された。富山県出身の軍医(大尉)は言った。
「青酸カリを20ccずつ打て。注射器も洗わんでいい。どうせ皆を、あの世にいかせるんだから」譜久山ハルは、
「そんなこと、出来ません」と答えた。軍医の平手と足が、直ぐに彼女に飛んできた。
「俺に反発する気かっ!おまえがやらんで、誰がやる!」瓶に入った白い粉末状の青酸カリは、不衛生なバケツの水で溶かされた。

水に飢え、そのバケツの水に飛びついた患者もいたという。
「私は震えてね。三人目を打つときにはね、もう、(患者が)ぱたぱたして『お母さん、お母さん』って大きな声を出して泣きながら、『お母さん、私はここで散っていきます。先に行きます』って」。その三人目の患者は、偶然にもハルの親類の青年であった。

「夜になったら這ってでもここから出るから、助けてくれ。打つまねをしてくれ」彼は、ハルに嘆願した。そして注射器から出た青酸カリの液体が、彼の袖を濡らした。

「静脈注射を、うちましょう」と打つ。はじめは治療と思って喜んだ患者も異変に気付き、壕内に
「看護婦さんは、うそつきだ!」という悲鳴が聞こえた。
 ハルは四人目を、打てなかった。アメリカ軍は、迫っていた。一刻の猶予もない。動けない重傷者を放置して、ハルたちは後退することになった。
「白いガーゼを木につけて、入り口に立てましょう」とハルは軍医に言った。米軍が発見して、中の重傷者を助けてくれるかもしれない。
「おまえが、俺に命令するのかっ!」再び軍医の平手が、ハルに飛んできた。こうして、東風平分院は放棄された。中に残された重傷者がどうなったか、現在も分からないという

   新城分院(あらぐすくぶんいん)

私が八重瀬岳中腹にある第24師団第一野戦病院跡を訪問したのは、20058月である。現在は公園として整備され、手術室なども見学することが出来た。ところが、分室とされた東風平分院は現在整地され跡形も亡くなっている。同じく分院とされた新城(アラグスク)ヌヌマチガマの場合は、少々状況は異なっていた。

 新城ヌヌマチガマは、具志頭村新城にあり全長500メートルで東西に貫通し、西側をヌヌマチガマ東側をガラビガマと呼ぶ巨大洞窟である。

沖縄戦当時の入り口は、西側のヌヌマチガマであった。この壕は約千名の負傷兵を収容でき、さらに上下二重構造になって上側は砲兵陣地として使われていたらしい。解散命令ののち、一人で歩行できる患者はもといた隊にもどされ、500名の動けない重傷兵達がここに残った。

彼らには衛生兵の手で青酸カリが、配られた。しかし、青酸カリが致死量に足りず、もがき苦しみ死にきれない兵士を衛生兵達が日本刀や銃剣で刺し殺したという。その様子を、忘れ物を取りに戻ってきた白梅学徒の一人が目撃した話は有名である。
 有名な巨大洞窟であるから、訪問は簡単と私は考えていたが、なかなかたどり着かない。近くには有名な玉泉洞のテーマパークがあるが、地元の人たちもあまり知らないようだ。     

ようやくガラビ壕入り口(ガラビガマ)にたどり着いたが、立ち入りは土地の所有者によって禁じられており、私は西側のヌヌマチガマを探した。県道の真下に、その入り口があり、夕闇が迫る中私は急いで坂道を駆け下り中に入った。中は、猛烈な蒸し暑さの中に延々とトンネルが延びていた。終点まで入ってみたい衝動に駆られるが、地面は泥濘で靴がめりこんでいく。それにしても、本当に巨大な空間が続き、持参した強力なハロゲンライトの光が届かないのである。私は、60年前に亡くなった人たちの冥福を祈った。

 
  
                〈ヌヌマチガマの入り口 と 内部 深すぎて先は見えない  2007 1 10〉

  
                        〈ヌヌマチガマの内部から入り口を見る〉

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