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座間味島の「集団自決」
阿嘉島 慶留間島
沖縄県慶良間諸島
〈渡嘉敷島から、座間味島 阿嘉島 慶留間島を望む。2005 8 撮影〉
〈座間味島が見えてきた〉
〈島に残る忠魂費 下は米軍撮影〉
〈59名が亡くなった「農業組合の壕の碑」〉
〈「平和の塔」に残る宮平恵達の名は悲しい〉
〈この森の中に大和馬の壕がある〉
〈特攻ボート「まるレ」〉
〈慶留間島の「第一中隊舟艇壕」〉
〈右が慶留間島」〉
〈米軍が阿嘉島に上陸占領〉
米軍が沖縄戦を開始したのは、沖縄本島に上陸する45年4月1日より一週間ほど早い3月26日の慶良間諸島上陸作戦からである。その島々では予想外の米軍の侵攻に、多くの住民が戦火に倒れると同時に自ら命を絶ちきる「集団自決」の道を選んでいる。慶良間諸島の中でもっとも大きな「渡嘉敷島」では326名、座間味島では177名(島民の戦死者は358名)、慶留間島では53名が「集団自決」の犠牲者と言われている。
私がこの座間味島を訪問したのは、2007年1月9日のことである。那覇市の泊港から出航した大型高速船「クイーンざまみ」は、40キロ離れた座間味島の座間味港までをわずか50分で結ぶ。真冬の外海はうねりが高く、船も米軍が艦隊を休ませるために欲しかった「慶良間海峡」に入り込むまでは大きく揺れた。シーズンオフのためか乗客は少なく、座間味港に降りた乗客はわずか15人ほどであった。
座間味村は現在人口約1000人。主な三つの氏まで成り立ち、座間味島671名、阿嘉島330名、慶留間島76名で成り立っている。
その中で座間味島には、、座間味集落430人、阿真あま集落100人、阿佐あさ集落90人の集落があり、中心は港があるこの座間味ということになる。
島の幅は東西5km南北3km、周囲は23kmで地形はほとんどが小高い山になっている。島の各所に展望台が設けられており、美しい海と島の景色を眺められる。米軍の上陸を前にこの島が大規模な空襲を受けるのは、45年3月23日のことである。1500機の米軍機が襲いかかり、座間味集落は消失した。村人23名が死亡している。当時の村の人口は5000名あまり、座間味島には700から800名の島民が暮らしていた。
翌3月24日も空襲は続き、25日正午ころからは艦砲射撃が始まった。駆逐艦4隻、巡洋艦2隻を中心に合計12450発の砲弾を、慶良間諸島に撃ち込んだ。面積一坪あたり21発に相当する、凄まじい砲弾の嵐である。
島は、騒然となった。すべての島民が予め準備していたそれぞれの避難壕に入っていたが、誰もが米軍の上陸を予期し、「鬼畜米英」の手にかかるよりは自らの手で命を絶ちきることを考え始めていた。特に村長(野村正次郎)・助役(宮里盛秀)・収入役の三役ら村の指導者たちは、決意を固めつつあったようだ。彼らは、伝令を出した。
「村の忠魂碑に集合し、ここで自決すること」を示唆する伝令である。
伝令には18歳の役場の書記宮平恵達が選ばれた。彼は降り注ぐ砲弾の中を、壕を回り伝令を伝えたようだ。
「忠魂碑」とは、昭和15年に日本国家の紀元2600年を記念して作られたものであり、靖国神社に直結する荘厳な斎場でもあった。その「忠魂碑」は、現在も座間味小学校の裏側の山の斜面の入り口にひっそりと建っていた。「死」を前に「ハレ着」姿の住民の多くが、その碑を目指した。
しかしたどり着いても、他の家族は見あたらない。時間を決めずバラバラにたどり着いた住民たちは、あまりの砲撃の激しさにそれぞれがもといた自分たちの「壕」に戻ってしまっていた。後から到着した家族もそれにならい、自分の壕に戻った。そして各自の壕で、惨劇が始まった。最も凄惨だったのは、村役場三役らの15家族計67名(59名)が全員死亡した「農業組合の壕」の壕であろう。ここで死亡した島民のうち26名が、小学校六年生以下の子供であった。野村正次郎村長は三人、宮里盛秀せいしゅう助役も7歳6歳3歳の三人、宮平正次郎収入役は実に7名もの実子を道連れとした。
現在この「農業組合の壕」の跡地には、「59名集団自決の地」と書かれた碑が建っていた。そこは「忠魂碑」からも歩いて7分足らずの、山あいの場所であった。この周囲一帯を人々が、逃げまどったことが容易に想像できる。
その碑の100メートルほどの所に、「平和の塔」という大きな慰霊碑もある。人々はいったいどのようにして、自らの命を絶ったのであろうか? 軍から配られた手榴弾のほか、棍棒や剃刀(かみそり)そして猛毒の「猫イラズ」、首を締めるためのロープなどが使用されたとされている。
大半は一家の長が自分の家族に手をかけたのち、最後に自らの命に手をかけている。無論死にきれずに、生き残った方々も数多い。
ある男性(当時46歳)は、剃刀で妻(43歳)と17歳15歳11歳9歳の二男二女の子供たちの咽を切った。11歳の男子は即死したが、残りの五人は昏睡状態になったところを上陸してきた米軍に救出されている。命は取り留めたものの五人のうち二人は、その後も声を出すことができない生活を送っている。これらの惨劇は、3月25日の深夜から米軍が上陸してきた26日にかけて起こったものが多い。
また現場のなった多くの悲惨な「壕」は現在その姿をとどめていないが、15名が首つりで自決したという「大和馬やまとんまの整備中隊の壕」というのが残っているらしい。座間味集落の西隣、「阿佐集落」にあるようだ。徒歩で訪問するには、時間がない。私はレンタバイクを借り、すぐさま向かった。阿佐集落のセメント工場で事情を話すと、「行くのは無理だねえ。道もなくなってね、ほらそこの谷の中にあるんだよ」指さす方向には、深い樹海が広がっていた。
この阿佐集落には戦時中、従軍慰安婦が7名滞在していたと言われている。全員が若い朝鮮人女性で、日本の将兵の相手をさせられていた。梅沢隊長には、専属の女性がついた。日本兵の数は多いときは1000名、米軍上陸時には約450名とされている。その日本兵とは、昭和19年9月10日に上陸してきた梅澤裕大尉(27歳)の率いる球16777部隊(海上挺身第一戦隊)と小沢義廣少佐の率いる球16788部隊(海上挺身基地第一大隊)900名がその最初である。
球部隊とは独立混成第四十四旅団をさすが、海上挺身第一戦隊というのは、ボートに爆薬を積み敵艦に体当たりする「まるレ」と名付けられた特殊船艇を100隻を有する部隊である。
「まるレ」は一人乗りの粗末なベニヤ板製であるが重量が1.4トンもあった。海上挺身第2戦隊は阿嘉島と慶留間島、海上挺身第3戦隊は渡嘉敷島、海上挺身第4戦隊は宮古島にそれぞれ配置された。私は今回近くの慶留間げるま島に作られた、この特殊船艇を格納していた「第一中隊舟艇壕」を見ることが出来た。偶然海岸で発見したものであるが、まさに「格納庫」のいでたちであった。
最終的には450名の日本兵が、この座間味島に残った。内訳は海上挺身第一戦隊104名(特殊船艇100隻120キロ爆弾210個)、勤務隊・整備中隊250名、特設水上勤務第103中隊40名、船舶工兵第26連隊第2中隊第1小隊50名、そのほかに朝鮮人の軍属である。
そして翌3月26日、夜が明けると海の色が分からないほどの米艦艇に島が包囲されていることを、島民は知る。そして米軍は、上陸を開始した。フィリピンのレイテ湾を3月20日に出航したバックナー中将第10軍の第77師団(ブルース少将)第305連隊第3大隊が、LST22隻LSM型船舶14隻LCI型船舶40隻で8つの島に上陸を開始した。
午前8時4分にまずは阿嘉島から上陸は始まり、続いて午前9時に第305連隊第1上陸大隊300名が戦車30両を先頭に座間味島に上陸した。日本の守備隊は驚愕した。沖縄本島に上陸してくる艦艇を背後から、先の特殊船艇(特攻艇)で攻撃するという計画は完全に失敗し、特殊船艇を自ら破壊して山地に立て籠もる持久戦をとることになった。
そしてその日の深夜0時(3月27日午前0時)、指揮官の梅澤大尉は「夜間斬り込み」を決行した。62名が参加し、55名が戦死したという。 阿真部落の米軍陣地を襲撃し、米軍も戦死7名負傷12名の損害を出している。私は座間味集落を見下ろす「高月山」を散策していたが、偶然にもこの「夜間斬り込み攻撃」の慰霊碑に行き当たった。「昭和百虎隊玉砕の地」と記された碑には、「3月26日深夜」の文字がはっきり刻まれている。ここに陣地を置き、ここから南側の阿真集落の海岸に出撃していったのだろう。
碑は「高月山」の山頂から阿佐集落に向かってやや下った森林の中に、ひっそりと建っていた。生い茂った草をかき分けなければ行き当たらない、寂しい場所であった。こうして最終的には日本軍将兵の87パーセント、369名が戦死することとなる。
私は、レンタバイクで島内を一周した。途中に出会った車も人も本当に少ない静かな島である。島の西側は「稲崎山」などの険しく、そして美しい山が続いている。この山中を、多くの人々が逃げまどった。海岸も険しく、きりたった断崖が続いていた。
海も美しい。展望台が数多く作られており、この季節は鯨が遊弋するそうである。この美しい島の民の半数を犠牲にする「戦争の惨禍」は、本当にむごい。2005年8月5日、沖縄戦集団強制死(「集団自決」)訴訟が大阪地方裁判所に提訴された。原告は、梅澤裕氏(元座間味島の第一戦隊長)と赤松秀一氏(元渡嘉敷島の第三戦隊長元大尉赤松嘉次の弟)である。
訴えられたのは、岩波書店と大江健三郎氏で、岩波書店発刊の家永三郎著『太平洋戦争』、中野好夫・新崎盛暉著『沖縄問題二十年』(岩波新書)、大江健三郎著『沖縄ノート』(岩波新書)を問題にしている。
原告は、三点の書籍が、1945年の沖縄戦初期に慶良間諸島で発生した住民の「集団自決」は、守備隊長であった原告・梅澤氏及び原告・赤松氏の兄が命じたと記述しているが、これは事実に反し、名誉を毀損、あるいは故人に対する敬愛追慕の情を侵害するというものである。
2007年1月19日(金)には大阪地裁大法廷で 7回目の口頭弁論が開かれており、現在係争中である。
「集団自決」を直接命令したのは誰かという問題よりも、当時の国家政策と教育のあり方が本質的な問題であることを忘れてはならないであろう。
島民から直接証言を得るのは、難しかった。唯一応じてくれた方は、「隊長が直接命令したかどうかどうかという問題じゃないんだよね。自決させてしまった教育や国の体制そのものが問題なんだよ」と語った。