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渡嘉敷島の「集団自決」                                
                                                                       
  
沖縄県慶良間諸島 
                
 
        
           
                     〈渡嘉敷島の阿波連海岸。2005 8 16 撮影

       
 
      那覇泊港からの「フェリーとまり」〉
  
 
        〈渡嘉敷島は山が海岸に迫っている〉

  
     
 〈玄関口の渡嘉敷集落も山に囲まれている

  

   
  
       〈阿波連集落の夏は、海水浴客で賑わう

  
  
      〈証言していただいた大城政連さん〉

  
 
       
    〈渡嘉敷島の阿波連海岸。2005 8 16 撮影

 この沖縄本島上陸を前に、米軍は3月26日突如沖縄本島の西に浮かぶ慶良間諸島に上陸してきた。これは日本軍も予想しておらず、あわてたこの島々では700名もの集団自決者を出している。
 そのうち27日に米軍が上陸した渡嘉敷(とかしき)島では、329名という全島民の三分の一を超える大量の集団自決者を生んだ。
「なぜ、これほど簡単に・・・そして大量の・・・」
 この事件の関係者に会って、直接話を聞いてみたと、いうのが率直な私の思いであった。しかし、幾人かの関係者を見つけたものの取材には応じて貰えず、私は途方にくれてしまった。

 とりあえず現地に行けば、なんらかのチャンスがあるかもしれない。
2005年8月16日、私は那覇の泊港から渡嘉敷行きの「フェリーけらま」に乗りこんだ。時々トビウオが飛ぶ海を、500人乗りの船が進む。
 那覇から約32キロの距離を1時間10分ほどで、渡嘉敷島の玄関口渡嘉敷につく。思った以上に小さな集落で、チャーター出来るタクシーもなかった。せめて、近くにある「白玉の塔」という慰霊碑には行きたいと思ったが、それも諦めた。人の流れに身を任せると、大半の乗客は阿波連(あはれん)ビーチに海水浴に行くらしい。

 渡嘉敷島が慶良間諸島ではもっとも大きな島で、南北9キロ、東西3キロ、周囲25キロで深い緑に島全体が覆われている。島の人口は現在約700人である。往復500円のバスにのり、細い山道を進むと島の西側が見える。海峡を挟んで、座間味島、阿嘉島、慶留間島などが見える。

 この穏やかな海峡を、米軍は欲しかった。ここに大艦隊を休ませて、沖縄本島攻撃の補給基地としたわけだ。
当時は、海の色が見えないほどの艦艇が埋め尽くしていたという。

強烈な真夏の太陽に照らされて、エメラルド色に海が輝いている日本軍は、沖縄本島に上陸してくる米軍の背後から奇襲攻撃をかけるねらいで、慶良間の島々に、海上特攻艇300隻をしのばせていた。特にこの渡嘉志久地区は、その拠点であった。
 この特攻艇「マルレ」はベニア板でできた半滑走型ボートで、120キロ爆雷2個を登載し米軍艦艇を特攻攻撃するための秘密兵器であった。しかし米軍の出現を全く予想できず、米軍が現れると特攻艇を破壊して兵達は山中に逃げ込んでしまった。こうして無謀な特攻攻撃は、はじめから不発に終わった。

 バスは、阿波連(あはれん)に着いた。強い日差しに、眩がしそうだ。歩いて50メートルほどの所にビーチがあり、海水浴客で賑わっている。
 客相手の村人が大勢繰り出しているが、70歳以上の人々を見ると全員が事件の関係者に思えてしまう。そうした中で、私は一人の男性に声をかけてみた。
「おじさんは、この島で生まれたんですか?」「そうだょ」「お幾つですか?」
「なんぼに見えるかね?ははっっ。71だよ。集団自決の生き残りだよ」
「えっ?」 私は耳を疑った。心臓がドキドキしている。
「その話を聞かせて貰えますか。仕事が、一段落したころ来ますから」
こうして私は偶然出会った大城政連さんから、60年前の出来事を聞くことが出来た。
   

少年の体験

 昭和8年生まれの大城さんは、
「4歳の時に、南洋のポナペ島(現ミクロネシア連邦)に渡ったんだよ。 姉と二人兄弟だったんだけど、ポナペで二人の弟が生まれてね。でも昭和18年から引き上げが始まって、父親だけポナペに残ってトラック島を通って、故郷のこの島に帰ってきたんだよ」
 故郷は、ここ阿波連であった。海上特攻艇の存在は、知っていたのだろうか?
「知っていたよ。しょっちゅう演習していたからね」米軍が、3月27日に上陸してきたのはここ阿波連と先の渡嘉志久である。
 
 赤松隊長指揮する特攻部隊と住民は、山の中に逃げこんでいった。

人々は雨の中を、北へ北へと進んだ。人々はいつしか島の北端の北山に追い込まれ、3月28日かねて指示されていたとおりに集団を組んで自決を始めた。
 手留弾、小銃、かま、くわ、かみそりなどを持っている者はまだいい方で、これらの持ち合わせのない者は、縄で首を絞めたり、山火事の中に飛び込んだり、この世のできごととは思えない凄惨な方法で、自ら生命を断っていった。
「3月28日の夕方だよ。雨が降っていたけどねまだ明るかったよ」。人々は、何百人も固まっていたわけではなかった。数十人単位のグループごとに、自決が始まった。
「私は手榴弾の爆発はみていないんだよ。はじめから信管がつめていなかったと、思うんだよ」
「えっっ?」これは、史実を覆すような証言である。
 あらかじめ軍から住民に渡されていた手榴弾には、信管がはずされていたものもあったということになる。
 凶器になったものは、こん棒であった。一家の長が自分の家族に、手をかけた。
「私達を連れていたのは、父がいなかったので叔父でした。 叔父が棒をもって、私達を次々に・・・・・・」
 叔父は棒で、一族を殴り倒した。
「下の弟は死にましたが、棒だったので私達は生き残ったんです」彼は、気絶した。母も姉も気絶した。
結果的に柔らかい木の棒は、多くの人の命を救った事になる。
「気絶したので叔父は、私達が死んだと思ったんでしょう。 上の弟は、今も耳が千切れているんですよ。棒でそぎ落とされたんですよ。 
 
 結局叔父は、そのまま行方不明でね。どこがで自決したと思いますよ」

この凄まじい内容に、私は真夏の高温を忘れ寒気を感じた。
「夜中に正気に戻ったんです。 水が欲しくて、谷の水を飲みにいったんだよ。 直ぐにあたりが明るくなってきたんだけど、その水を見ると血で赤くなっていたのを覚えているね」
 現場は、西山と呼ばれる丘陵に近い恩納河原とされている。
「今はね、ほら国立青年の家のあるあたりだよ」
「夜中に迫撃砲を米軍に、撃ち込まれていますよね?」
「あっっっ、夜じゃないよ夜明け頃だよ。明るくなってきたら撃ち込まれてね、その時の傷がこれだよ」
 彼の右ももには、現在も傷跡がはっきり残っていた。
「姉はどこかに行ってしまったんだけど、とにかく大けがをしてね、動けなくなったんだよ。這うように海岸に向かっていったら、すぐに米軍が来たんだよ」。
 こうして、11歳の少年と母は保護され、隣の座間味島のキャンプに送られていった。 
 
 集団自決の犠牲者329名の大半は、ここ阿波連と渡嘉敷の人々と言われている。現在の阿波連の住人は200人ほどであるが、当時は300名ほどだったという。これは集落の約半分の方が亡くなったと、計算できる数字である。

 この自決事件以外にも約40名の住民が戦死しているが、その中には日本軍にスパイの容疑をかけられ殺害された方も11名いるという。 住民に自決を指示した日本軍の戦死者はわずか76名、兵の多くは山中に立てこもり終戦後保護された者が多い。
 朝鮮半島から強制連行されていたという慰安婦をはじめ約300名もの朝鮮人の行方は、謎のままである。
 対岸の座間味島では171名、慶留間島では53名と言うのが自決者の総数である。

私は、彼の話を伺った後に海に入ってみた。一歩入った途端に、熱帯魚のような美しい魚がまとわりつく。
 100メートルも沖にでると、1メートルもあろうかと言う大きな魚が悠々と泳いでいる。海の自然の豊かさに、驚いてしまった。これまで訪問してきた南の島の中で、もっとも生物たちが豊かに生きていた。
まるで、亡くなった人たちの分まで生きているかのように。

                     
       
  
                 〈米軍が迫撃砲を打ち込み大城さんは負傷した。阿波連から阿嘉島方面を望む〉

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