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轟 き の 壕 ガ マ                                                                                                                                                  沖縄県糸満市           

      
 
   
  
          沖縄を代表するガマが「轟きのガマ」である。4度訪れたが、いつも新鮮である。2009 11 11
       
 
         入り口はとても狭
  
 
       〈天井も低く、危険箇所は少なくない〉

 
             〈奥に進む回廊部分

 
       〈佐久本さんご夫妻 2005 8 15

 
          〈見取り図 NHKより〉

 
       〈左奥の住民壕の天井。落石注意〉

 
       〈内部には川がある。水だけはあった

 
        〈住民壕は広いが足場はよくない〉

昭和20年の6月になると日本兵と住民は、アメリカ軍の進撃に伴って沖縄本島の南部に追いつめられた。避難先としてもっとも安全なのが、ガマ(壕)と呼ばれる自然洞窟である。沖縄本島の最南端に、轟きの壕と呼ばれる大洞窟がある。

この洞窟は全長約1キロメートルに及ぶ地下水脈の通った地下洞窟で、沖縄戦が始まる前から地元の住民が避難壕として整備し使用していた。
 5月下旬から6月上旬にかけて、避難民が最後の避難場所をもとめて入ってくるようになった。

 その住民の中に、現在沖縄県浦添市のお住まいの佐久本朝松(さくもとちょうしょう)さんと妻の静さんがいる・・敬称略。

 当時28歳で警察官をしていた佐久本朝松が那覇市から、妻の静と二人の子供そして70歳の母を伴いこの壕に避難したのは、昭和20年6月2日ころのことである。長女の寿子(としこ)は満二歳、長男の朝勝(ともかつ)は、防空壕の中で3月18日に生まれたばかりの幼子であった。  
  轟きの壕はすでに、避難民でいっぱいであった。あふれる人々をかき分け、一行は壕の中に入った。巨大な壕のなかには、幸運にも水の流れがあった。こうして「飲み水」だけはあった。
 しかし、「光」と「食料」はなかった。目は暗闇に慣れていくとはいえ、暗黒の世界の中で人々は呻いていた。人々は暗黒の中で流れる水をがぶ飲みし、空腹をごまかした。
「川がありました。暗くてよく見えなかったのですが、死体や人の汚物もぷかぷか浮いていました」
 人々は死体や人糞の浮かぶ川の水を飲み、命をつないで行った。

6月7日ころに島田叡沖縄県知事と荒井警察部長の一行が、この壕にたどり着いている。そして、6月15日ころ女性連れの日本兵14・5名入ってきた。その兵隊達がその後壕を支配し、彼らの横暴がはじまった。
「ある日兵隊が日本刀を抜いて、暴れていました。将校の軍服を着て、階級をごまかしているようでした。子供の泣き声が、外に聞こえる。泣く子は叩き斬ってやるというのです」
 轟きのガマでは、実際に殺された子供もいるという。

戦局の最終段階を目前に、地元住民と日本兵との間には軋轢が発生していた。4月9日に軍司令部は、命令をだしている。
「琉球語を話す住民は、スパイと見なして処分すべし」というものである。
 老人など琉球語しか話せない沖縄県民の存在を知りながら、このような命令を出す軍司令部の内面に、沖縄県民を二流国民と見下す思想が見える。「沖縄県民総スパイ視」をする当時の国の姿勢が、ここにも貫かれている。
 「私も、警察官だってスパイだからなと言われたことがあります」こう話す佐久本朝松の表情には、悔しさがにじみ出ている。
 6月15日の夜島田知事は、摩文仁方向にこの壕を出て行った。壕の日本兵は、それを機に民間人を壕の左側に閉じ込め、見張りを立たせて米軍への投降を阻止した。その後、食料不足による餓死者が出始めた。

 「私達も、わずかな米を携帯燃料で炊きましたがうまく炊けませんでした」壕の天井からは常時水滴がたれ、避難民の衣服を濡らし体温を奪っていった。
「寒くって、あるものは全て身に付けていました」佐久本静
 食糧不足の中で、幼子の朝勝が息を引き取った。
「さとうきびを、吸わせていました。喜んで飲んでいましたが、骨と皮だけになっていったんです。中には親切な方もいたのですが、兵隊にサトウキビを盗られてしまったこともありました」

6月18日、轟きの壕はアメリカ軍の「馬乗り攻撃」を受けた。バックナー軍司令官が戦死したこの日、アメリカ軍の始めた無差別報復攻撃は、近くのこのガマも襲った。そして、ガソリンの入ったドラム缶が投げ込まれた。
「ドラム缶といっても、入り口が当時は人が一人通るのがやっとの狭いものだったので、小さなドラム缶でした。私達は奥の方にいたので大丈夫でしたが、死人が出ました」朝松
「大やけどをして、皮がむけていた人をみましたよ」

  脱  出

そんな状況の中、6月22日佐久本夫妻は二歳の寿子を失った。
「栄養失調と過労で、発熱していました。肺炎に、なっていたんでしょうね。早くお家に帰って、ご飯を食べようと行っていました。暗くてよくわからないのですが、毎日人が亡くなっていきました」朝松。
 その翌日6月23日、脱出に成功した海軍士官の呼びかけで多くの住民はガマを出ることになった。

「信頼していた方が、迎えに来たんです。私も、どうせ死ぬのなら光を見てからと思って外に出たんです。二人の子供の遺体を、私の警察官の制服に包みました。お父さんとお母さんはすぐに戻るからねと言って、壕を出たんですよ。私がでると、ぞろぞろとあとに何百人も出てきたと思います。アメリカ軍がロープを下ろしてくれて、それを頼りに外に出ました。6月23日の朝の事です」。      

右側奥深く隠れていた地元の住民の一部はそのことを知らず、ガマを出たのはずっと後だと言われている。人々は、ぽろぽろの衣服をまとい、餓死寸前の体を引き摺りあげた。
 米軍に保護された後も、体力が回復せず死亡した人々も少なくない。
「私の母も救出された後、行方が分かりません。きっとどこかで、息を引き取ったのでしょう」 
 佐久本夫妻が二人の子供達の遺体を探しにこの壕に再び入るにも、その後三年の月日が必要であった

この「轟きの壕」は、県道沿いの小道を入ると直ぐにあるのだが、駐車場も管理所もなにもないことにまず驚かされた。全くの無人の林に、小道の階段が下に伸びている。
 窪地に続く階段を下ると空気の流れが止まり、夏は蒸し風呂のような空間が現れる。唯一の入り口が見える。 かなり狭いがこれでも、米軍に爆破されてかなり広くなったらしい。中は当然真っ暗である。

数百人の避難民がひしめいていた左側の洞窟は、体育館のような広がりを持っていた。真上に県道が走っていることになる内部は暗黒の世界である。左の壕には、体育館のような巨大な空間が広がここに数百人もの人々がひしめき合っていたかと考えると、痛恨の思いである。

 
 
 ◆近年周辺が整備され、駐車するスペースなどもできている。
  団体で訪問する場合は、予約が必要である。
  個人で訪問しても、入場料もない。
  要するに管理人はおらず、すべては本人の責任におかれている。
  洞窟内は、照明が無ければ、一歩も先に進むことはできない。
  天井の低いところも多く、頭部を保護するものはあったほうがよい。
  内部は落石にも注意が必要である。

                     
    
    
 〈入り口から外を見る。生きていることが実感できる〉           〈米軍が撮影した住民救助の状況  1945 6 25〉 

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