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  白梅学徒と崎山麗子さん                                                    
                                      
 旧姓 真玉橋麗子さん
 
                                                                                  

     
  
             体験を語る崎山麗子さん。2009 11 11. 右は新里堅進作「白梅の碑」より

       


       
       

         
            〈新里堅進作「白梅の碑」より
     
 

 
      〈「白梅の塔」でのセレモニー〉
   

 崎山麗子さん(旧姓 真玉橋)東京生まれ。父は戦争へ行き、母は沖縄から上京し、東京で沖縄から上京してきた子たちを預かる下宿屋を営んでいた。年の離れた兄2人は独立し、年の近かった兄は一緒に生活をしていた。

沖縄戦がまだ始まっていないある日、沖縄にいるおじから1本の電話がきた。「東京はいつ戦争にあうかわからない。だから沖縄に戻ってこい」と。
 母はその話を聞き、戻ることを決めた。しかし麗子さんは、友達と離れるのが嫌で、沖縄には行きたくなかった。しかし兄に「これ以上母さんを困らせるな!母さんの言う事を聞け!」と怒られ、行くこと決めた。

沖縄に渡り、県立第二高等女学校に行く事となった。そのときの4年生は「みつあみ」と髪型が決まっていたが、麗子さんはおかっぱでみつあみができなかった。それでそのまま学校に行ったら、麗子さんのことを「自分を持っていて素晴らしい」という人もいれば、「あの子は生意気だ」という人もいた。

母の誕生日であった1010日に沖縄が空襲にあった。その日学校で、学校長が上級生を呼び、「たくさんの兵隊が負傷した。学徒となって手伝いして欲しい。しかしこれは自分だけのことではないので、ご家族とよく話し合いなさい」と言われた。
 母に相談したら、母は快く送りだしくれた。一緒に住んでいた3人のお友達も一緒に行く事となった。

3月5日、先発隊として野戦病院に行ったが、本隊を迎え入れた6日に受験のために一旦那覇に戻った。麗子さんは医者になりたかったので、東京女子医科専門学校の受験をした。その後1週間遅れて、諸見里和子、崎間政子と一緒に東風平に行き、第4内務班に所属し看護の技術を学びはじめた。

ここでは第二高等学校の生徒と、私立積徳高女の生徒が一緒に訓練をした。2つの学校はよく比べられた。その後5つの班で別れ、星のマークの数で差をつけられた。

毎朝5時半に集合し、遅れたり、服装が乱れたりしていたら『鬼軍曹』であった米田軍曹に怒られた。ある日崎山さんが米田軍曹に朝食を持っていくこととなった。
 しかし他の班より遅れて、それに米田軍曹は怒りを表した。「もう飯は食わん!もって帰れ!」と言われ、そして往復ビンタを受けた。戦後64年たった今でも、麗子さんはこれだけは鮮明に覚えていると語った。

ある日米田軍曹に名前を呼ばれ、私物をもって集まれと言われた。麗子さんはまた何かしたのかと怯えていたが、「家に帰れ」と言われ驚いた。

麗子さんは体があまり良くなく、それを心配していた母が、一緒に行った友達前川三枝に麗子さんを帰らすよう頼んだそうだ。それを友達は米田軍曹に言い、家に帰ることとなった。

しかし家に帰ると言っても周りは焼け野原となっており、帰る場所がなかったので、ガマで過ごしていた。

しかしある日そのガマもアメリカ兵に襲われた。1人の生徒が泣いて、自分の身を守れない状態になっていた。すると麗子さんの友達だったヤカトシコさんがその人を自分の体を張って守った。そしてアメリカ兵が銃を発砲した。その玉はヤカトシコさんを直撃した。ヤカさんはその場に倒れこみ、病院に運ばれた。無事一命を取り留めた。

麗子さんよくお見舞いに行った。しかし熱病という病気が発症して亡くなってしまった。「トシコちゃんが亡くなったときは、本当にビックリした」と麗子さんは悲しそうに語っていた。
                     小西記者

                       
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