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白梅学徒と金城幸子さんⅠ
〈体験を語る金城幸子さん。2009 11 11. 左は新里堅進作「白梅の碑」より〉〉
〈現在の八重瀬岳〉
(「第一野戦病院」の入り口)
〈「山第一野戦病院」の内部〉
〈その手術室前で説明する金城さん。2007年11月のもの〉
太平洋戦争末期、戦局の悪化とともに満17歳以上25歳までの独身女性も戦争にかり出されることとなった。女学校の生徒たちは、学徒看護要員として軍から要請を受けている。沖縄県立第二高等女学校にも、この要請がやってきた。当時のこの女学校は1学年150名で編成され、クラスは松・竹・梅の3クラスである。学年で髪型が決められ、「三つ編み」だった四年生の一人に金城幸子(梅組)がいる。
しかし那覇市松尾山にあった校舎は「10月10日の空襲」で焼失してしまい、空襲後生徒たちは本土や島の北部にその多くは疎開してしまった。
学校側は新聞広告などを出し、「学徒看護要員」の募集を呼びかけた。4年生150人のうち60人余りが市内に残っていたが、昭和20年3月6日の集合の日には4年生54人が集合した。軽便鉄道国場駅前に集合し、第24師団陸軍病院看護教育隊に入隊するため、列車に乗って本部の東風平国民学校に移動した。この部隊(山三四八六部隊)は総勢200人、六つの班には分けられ、第一、第二、第三班には私立積徳高女の55人、そして第四、第五班にこの県立第二高等女学校が割り当てられ『白梅隊』と名付けられた。そしてここで、厳しい訓練が始まった。
3月23日には、艦載機355機の爆撃を受け、生徒たちは学校の裏山防空壕に避難し、翌24日には米軍の艦砲射撃を受けた。
戦局は急転し、午後6時に非常呼集がかけられて、24日夜、八重瀬岳の中腹にある「第一野戦病院」に配属することが告げられ、その足で夜道を移動した。
病院は、まだ完成していなかった。正式な入隊の手続きを済むと、引率の先生たちは引き上げた。この第一野戦病院は「下の壕」「上の壕」の二つの壕に別れ、金城幸子のいた内科は「下の壕」であり、丘を切り崩し4つの入り口から通路が網の目状に延びていた。
「上の壕」には手術室などがあり、収容能力は約500人で、軍医、衛生兵、陸軍看護婦ら193人に白梅隊が加わっていた。
負傷した兵士の手術は、煮沸消毒などの煙が米軍に発見されないよう日が暮れてから明け方までの夜間に行われていた。手術室では、軍医が執刀し2、3人の学徒が、カーキ色のローソクを指の間に挟んで負傷箇所を照らしていた。治療らしい治療は出来ず切断した手足は、カンパンの罐に入れ外にできた大きな穴に捨てられた。
入院患者の病名は、アメーバ赤痢・肺結核が中心であった。また内科患者に対する学徒たちの主な仕事は、動けぬ患者の大小便の世話であった。
患者の寝台は松の丸太を枠にし、床は竹を編んで作った粗末な二段ベッドであった。米軍上陸後の4月中旬、内科の患者は半強制的にもとの部隊に戻され、代わって負傷兵が多くなってくる。 5月からは雨期に入り、病院壕の通路は三十センチくらいの雨水が溜まり始めた。
学徒たちは、負傷兵の傷口からウジをかき出し作業が増え、また負傷兵の増加に伴い三交代の勤務が二十四時間体制になっていった。壕の入り口には、番兵が置かれ出入りは厳重になった。学徒たちは、「み号剤」という暗夜でも視力が利くという薬を、甘いのでおやつ代わりとして飲んだという。空き瓶はランプとして山羊の脂を使用したが、ススがひどく顔は真っ黒になったという。
金城幸子は、当時鬼軍曹と呼ばれた米田軍曹に目をかけられ、また禰覇幸子と親友となり一緒に行動していた。
その後、新城(あらぐすく)と東風平(こちんだ)の分院の設置に伴い、学徒たちが派遣されることとなった。金城幸子、禰覇幸子、上地美代子、上原ハツ、金城愛子の5人が、米田軍曹に率いられて東風平に移ることになった。