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  白梅学徒と金城幸子さんⅡ
         
                                                                                                                 
     
      
               体験を語る金城幸子さん。2007 11 5. 右は新里堅進作「白梅の碑」より〉
 
  
   
       新里堅進作「白梅の碑」より

 
      (「第一野戦病院」の内科壕見取り図 

   
          新里堅進作「白梅の碑」より

  
  
この日は7人もの白梅学徒さんがいらしてくれた。2009〉
  

 

米軍が近づき、6月3日分院は閉鎖され全員が本部に戻った。翌6月4日には、野戦病院本部も解散となった。
 傷病兵のうち歩ける者は、すべて壕を出ることになり、学徒たちも各自で行動することになった。
 彼女たちには知念半島へ脱出するよう命令が出され、俸給として百円が同時に米、鰹節、カンパン6袋、粉味噌、粉醤油なども支給された。

この日まで白梅隊の犠牲者はなく、解散後、金城幸子、禰覇幸子、上地美代子、上原ハツ、金城愛子の5人に喜久里栄子が加わり、壕を出た。しかし、上原ハツは途中ではぐれてしまった。真栄平から新垣方面に移動したが、途中陸軍部隊に出くわし、彼女たちは炊事でもさせてくれと頼み、食事をとることもできた。

 翌日、金城幸子と禰覇幸子はほかの3人とは別の壕にいたが、男ばかりの雰囲気を恐れ、一日限りで新垣を出た。

その後二人は、国吉に学徒達が集まっているという話をききその国吉に向かった。先の八重瀬岳にあった第一野戦病院が、自力で動ける患者のみを伴いここに移動したと言うのである。

その国吉周辺で、金城幸子は避難民の中に、偶然父や親類と出くわすがその場では合流しなかった。

そして4日後の6月8日「国吉下の壕」にたどり着き、友人や米田軍曹たちと再会を果たした。壕の奥には100名以上の患者が寝かされていたと言う。
 ここで金城幸子は米田軍曹から「お父さんの元に戻りなさい。これは命令だ」と指示され、壕を出て父親たちと合流することになった。

6月9日大嶺美枝子たち9名が国吉の壕に着くが、その夜、美枝子は戦死する。 国吉の壕とは、「上の壕」が収容壕として使用され、「下の壕」は治療壕として、白梅隊員16名が負傷兵たちの看護に当たっていた。

6月18日から、艦砲と砲弾が雨のように降り注ぎ、6月21日下の壕が「馬乗り攻撃」をうけた。

ここで、五名が死亡した。高良ハツ(移住先のフィリピンから帰国)、上原ハツ、安仁屋俊子、玉那覇スミ、上原春江(ハワイから引き上げた日系二世)の五名である。

 そして「上の壕」も、馬乗り攻撃を受けた。ここでは、女の声がスピーカーから「出てらっしゃい」と聞こえてくる。その後艦砲がやみ、アメリカ兵の声も聞こえてくる。直後に手榴弾が投げ込まれ、入り口近くにいた約10人の兵が倒れた。

手榴弾の次に火焔放射器が。一瞬、火柱が横になって壕を走った。屋嘉敏子が背にまともに浴びて倒れ(翌年死亡)。安森信子・上原テル子の計3名が亡くなった。上原富子(フロレスカ富)津嘉山ツル子・金城政子が負傷している。また共にいた矢野兵長と鈴木上等兵は、銃で自殺した。

白梅学徒の犠牲者は、計22名とされている。戦後「国吉下の壕」の側に、「白梅の塔」が建立されている。(下の写真は1951826)

                        
      
      

      
                       白梅の塔の真下にある、「国吉下の壕」の入り口と内部  2009 11 11〉

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