HOME>nomonhan                                          Nomonhan>mongolia >Aug 2010



              ソ連軍の総攻撃と第27連隊
             
                     ノモンハン事件現地取材2010夏 その6               
                                                      
                                                 十勝毎日新聞にて連載  
  モンゴル国ドルノド県                                              2010 8
         
 
              〈中国国境線から田原山方向を見る。ひたすら大平原が続く。2010 8 9〉
  
 
       <田原山を望む中国国境線の墓標〉
  
  
   
          〈これが国境監視所)
 
  
           〈国境監視所の兵隊用トイレ)
 
 
        〈国境監視所の兵士が飛び出してくる〉


  
     
      
行動は素早いが、彼らは
       国境線の正確な位置も把握していなかった〉


 
   旭川駅から満州に向かう第7師団の兵士
                 高山東さん提供〉


  
     現在と当時の武田幸太朗さん 2010 4〉

 
  武田さんたちのように
       トラックに乗れた兵士は幸運であった〉


  
      現在と当時の阿保さん 2010 8 4〉


   中国国境線へ 

「あれが、ノモンハン山です」。途中から乗り込んだ国境警備隊のムンフナイラムダル所長が車内で前方を指さした。なるほど大平原の前方かすかに、三角形の小山が見える。「ノモンハン」は、中国側にある。 
 私たちには中国国境ラインに向かって進んでいた。私には、もう一カ所どうしても訪問しなければならない場所があった。この後ふれる第27連隊が、死闘を繰り返した「田原山周辺」である。しかしここは現在、完全に中国領内にある。
 私は最低でも傍観できる地点まで、あわよくば迷ったふりをして国境線を越えてしまおうと考えていた。そのために、同行する所長の懐柔政策に賄賂代わりの日本製ウイスキーを挨拶時に手渡しておいた。

しかしなんと監視所が現れた(。たちまち兵士が現れて(写真下)ムンフナイラムダル所長に敬礼する。いったん諦めかけた私の計画だが、「今日は国境まで行けるようです。ラッキーです」と、予備運転手バーギーさんがそっと私に英語で耳打ちする。ウイスキーが効を奏したようだ。
 「ここから、国境まで何キロですか」と私が訪ねると同時に、私がGPSを手にしていることを見て同じことを聞き返してきたではないか。どうやら国境警備隊は、国境までの距離を正確には把握していないようである。「しめた、勢いで越えてしまおう」。助手席の私は運転手のトゥーメーさんに、「行っちおうよ」と目で合図した。

 日が傾き日中の風が収まると、巨大な蚊が現れ車内に乱入してきた。一時車内が騒然となったが、なるほどこれが兵たちを悩ませと「蚊」である。三キロほど東に進むとGPSの表示通りに「田原山を望む」と記された墓標が現れた)
 その北西の方向を眺めても、「山」と言えるような物は見あたらない。大平原が続くだけである。そうなのだ激戦地「田原山」も「スングル山」も大平原の中の、小さな丘に過ぎないのである。
 呆然と眺める私の耳に、「今日は、ここまでだ」。ムンフナイラムダル所長の声が聞こえた。私たちの野望は、ここで幕を閉じた。

ソ連軍の総攻撃    

1939820日のソ連軍の総攻撃は、日本軍の予想をはるかに超えるものであった。
 日本側は当初「8月中のソ連軍の攻勢は確実」と予想したが、次第に「ソ連は反撃せず越冬準備に入った」いう、都合のよい楽観論に変化していった。
 そこに820、ソ連軍は、航空機約500機による爆撃、日本軍陣地を見下ろすコマツ台地から3時間にわたる砲撃の後、戦車500両、装甲車400両を中心に兵員57千名が一斉にハルハ河東岸の日本軍殲滅作戦を開始した。
 ハルハ河には12本の橋が架けられ、日本軍の火炎瓶攻撃に備えて、戦車・装甲車のガソリン・エンジンは発火しないディーゼルに取り替えられ更にネットで防御された。

 総指揮官ジューコフ将軍が準備させた物資は、砲弾約280万発、各種燃料1万5千トン、食糧4千トン等合計5万トン。これらの大量の物資の輸送は日本軍に気づかれぬよう夜間に、細心の注意を払って行われた。使用されたトラックは、5千台から1万台という。
 日本軍はこの時期、戦車は皆無、火砲もわずか100門と言われている。火炎瓶を手に、肉弾攻撃で必死に反撃したが、新装備の戦車・装甲車には効果なく、圧倒的なソ連軍の火力に壊滅し、敗走した。日本軍は、ソ連とモンゴルが主張する国境線の外へ追い払われていく。
 日本軍は、これまで戦闘に参加していなかった第7師団主力にノモンハン付近を確保させ、新来の部隊で今後の作戦に備えることになった。

第27連隊第2(田島)大隊は

ここに登場する第7師団主力には、北海道東部を中心に編成された第27連隊が含まれている。
 27連隊は3個大隊1690名が送り込まれ、戦死211名戦傷192名という数字が残されているが、そのうち第3大隊は参加した317名のうち231名が死傷(戦死153名)するという壊滅的な被害を受けている。
 しかし、これだけ多くの犠牲者を出しながら、その記録は防衛庁の戦史叢書等にもまったく触れられず、これまで「戦史」からは無視されてしまっていた。

826日ころ兵站基地ハイラルから、戦場に向かった第27連隊第2大隊の兵士の1人に、広尾町出身の武田幸太郎(敬称略 第6中隊 1917年生)がいる。
「トラックに乗せられたねえ。なんでも3千台の車両が集められたと聞いたよ(実際は700台程度)。 一台に145人乗ったね。三八銃と弾丸は80発くらいかなあ、私は擲弾筒を8発持ってましたよ。擲弾筒は45度の角度にすると、670メートル飛ばすことができるんですよ。1小隊に擲弾筒9、機関銃が3ありました。三人一組で一台の擲弾筒です。砲手が1命弾薬手が2名です」。

「トラックは草原を進むんですが、この日途中でソ連機が7・8回きました。そのたびにトラックは道から外れて30センチくらいの草が生えている草原に散開するんです。死ぬことは覚悟していたんで、怖くはなかったですよ。背嚢に入るだけの食料を持っていました。軍足に米を、詰めてたね」。

この826日夕刻、トラックはアブタラ湖付近に到着した。
「どこか分かりませんが、夕方に戦場の真っ只中に着いたんです。砲弾が炸裂してましたよ。ソ連軍の戦車が列になってくるので、トラックから降ろされたね。近くに日本軍の高射砲部隊がいて、私らに貴様らどこにいくんだ、敵戦車が来てるぞ。蹂躙されたいのかとどなられました。高射砲〈本来は対飛行機用であるが、水平に撃つこともできる〉が戦車に向けられ、次々と命中していましたよ」。

「とにかく、慌ててトラックから飛び降りたね。背嚢を背負ったままね。直ぐにソ連機も来たね。私は飛行機に向かって、小銃を12発撃ったんだよ。背嚢が重く、仰向けにひっくり返ったままで撃ってね。空の薬莢を全部拾ってポケットに入れたんだよ。後で竹沢分隊長に、そんなもの捨ててしまえと怒鳴られたね。銃弾の一発も大切にする習慣が身についていたんだね」。
 そして暗闇がやってきた。部隊はその場で壕を掘る。
「地面は砂地で〈ハルハ川東岸は砂地が多い〉柔らかいんです。エンピで穴を掘り、体を入れました。眠るとか食べるとか、そんな場合じゃなかったね。大隊長の田島少佐が、自分の穴に入っていろと怒鳴っていましたよ。昼間は暑く、夜は寒かったね。戦車用の落とし穴をつくりましたよ。対戦車地雷10キロも持たされていました」。
そして8月29日を迎える。

「二日ほどその穴にいましたが、白い旗を掲げ声を出さず進みます。夜襲に出たんですよ。大隊全部です。小銃など金属のものには、音が出ないように布を巻いたよ。一寸先も見えない暗闇で、前の兵隊についていくだけだね」。
 目指す地点(758高地方面)のソ連軍は、後方に下がっていた。
「日が昇りソ連軍が作った陣地に身を隠していると、ソ連軍が来たねえ。二キロ以上はなれているのに機関銃を撃ったら、ソ連軍が戻っていったよ」。すでにソ連側は主張する地域を確保し、無理な攻撃は控え始めていた。
 同じ第
6中隊の当時伍長勤務上等兵だった阿保一二光(ひふみつ 敬称略 19173月生 本別町在住) は、

「分隊長になり兵10名を連れて、夜襲に出たんです。新兵器の擲弾筒を持っていました。山の陰に敵が、見えたんですよ。違反だとわかっていたんですが、距離300 撃てっと、発射命令をかけたんです。するとこちらの野砲なんかも沢山撃ち始めたんです。敵は後退していきました。
 この時敵と味方合わせて300ほどの死体が、残されたんです。私の部隊も、30名ほどなくなったんです」。

再び武田幸太郎の話に、戻ろう。
「その夜、また夜襲のために前進したね。結局そこからもソ連軍は撤退し、それ以上の前進は危険と判断して、その地点で停戦の3日ほど前までいたと思うね。そのうち私のところに、這って兵隊が助けてくれとやってきたんです。後で加藤という名の上等兵と分かったんですが、隣の第3大隊の兵隊でした。俺の部隊は、全滅だ。これが命の恩人だといって円ぴ〈兵士用の小型スコップ〉を私に見せたんですよ」。
 この夜、こうして第二大隊はソ連軍と遭遇しなかったが、その右翼を進んだ第三大隊(田原少佐)は強力なソ連軍の攻撃の的となった。

  
  
                 
                 国境線の向こうに見える中国側監視塔と、平原の果てに見えるノモンハン山〉

     
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