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              田原山の死闘T 第27連隊
             
                     ノモンハン事件現地取材2010夏 その7               
                                                  
                                                 十勝毎日新聞にて連載
  モンゴル国ドルノド県                                              2010 8
         
 
              〈中国国境線から田原山方向を見る。やはり大平原が続く。2010 8 9〉
  
 
    <当時も大平原であった。高山東さん提供〉
  
  
   
       〈現在の椿原金後吾さん)
 
  
         〈ソ連軍のBT戦車 高山さん提供)
 
   
            〈現在と当時の高田さん〉


    

      
このあたりではGPSはこんな数値を示す
              国境監視所周辺で〉


 
 ノモンハンの夏は花の季節でもある ルリタマアザミ〉

 
   〈スンベルの村と中央に2泊した博物館が見える〉

 
  博物館のおばちゃんが作ってくれた
   この国のごちそうチャンスンマハ 2010 8 8〉


  
   〈ハルハ河が光っている
            スンベル村で 2010 8 10
 午前7時〉


  第3(田原)大隊の壊滅 

 壊滅した第三大隊は、歩兵第91011中隊、第3大隊砲中隊・速射砲中隊・連隊砲中隊・機関銃中隊など合計317名で構成されていた。
 824日満州国ノン江の兵舎を出た部隊は、26碑午前1時半にハイラルの駅に到着した。
 大隊長田原少佐は、各部隊を集め広大な平原だけの戦場地図を広げた。
そこには地形に付いての記載が全くない。
「地図は見ても見なくても同じだな」、将校たちは笑った。

 26日午前10時兵を満載したトラックは、ハイラルを出発した。日の丸や白い割烹着の国防婦人会の人たちが目にしみる。現地中国人(満人)も白系ロシア人も手を振っている。
「すれ違うトラックは負傷兵でいっぱいで、頼むぞうと叫んでるんだ。前面の窓ガラスも、壊れたままの車両が大半だったよ」。そう語るのは、104名が参加した第3機関銃中隊の1人、本別町在住の椿原金吾(敬称利益 1916年生)である。
 負傷兵を乗せたトラックが、鉄道の複線のように延々と対向車線に続いた。

この日午後は雨になり、泥濘は車軸を没した。間もなく装甲車やトラックの残骸が現れ、馬の死体が野晒しになっている。
 将軍廟あたりで、「敵戦車!!」の叫び声が聞こえた。2台のソ連軍戦車が姿を見せ、たちまち砲弾が飛んでくる。戦車砲だけでなく、重砲の砲弾も飛び交う。
「人員下車! 自動車散開!」兵士たちは一斉に窪地に飛び込んだ。田原大隊長が叫ぶ。
「あれ敵のBT戦車だ。よく覚えて置け。近くにきたら生けどれ」と。
 ここで兵士たちは、すでに前線部隊が全滅に近いことを知らされた。そしてその生き残り部隊が、ここ将軍廟に集結しつつあった。再びトラックは動き出し、翌朝の27日朝に最前線に到着した。

到着すると、第27連隊にこの日の761高地への「夜襲命令」が準備されていた。ここで「夜襲命令」とは、あまりにも無謀である。昼間でさえ大平原が続く地形に目標が定まらないのに、右も左も分からぬ到着したばかりの部隊にこの命令である。近くのモホレヒ湖畔にあった第6軍戦闘司令部がソ連軍の進撃に危機感を感じて、安全確保のために命じたものとも考えられている。

結局この「夜襲」は、翌日に延期された。しかし同じ機関銃中隊の高田光夫(敬称略 帯広市在住 1917年生)は語る。
「水盃をし、背嚢・寄せ書き・預金通帳・印鑑も置き夜襲に出発したんだよ。この日は空振りに終わってね、元の場所に戻ってきたんだ。だけど荷物は何もなかったな。水筒と短剣だけが残ったんだ」。
 とにかく運命の「761高地への夜襲」は翌828日深夜に延期された。日本軍得意の「夜襲」とは、勝ち目のない破れかぶれの戦法に他ならない。
二回目の夜襲に出発したんだ。ソ連軍の待ち伏せに合った形だね。どこの高地だったかなんて俺達兵隊なんて知らんさ」高田光夫。
 兵士たちは貴重な水で、最後の飯盒飯と味噌汁を携帯燃料で作った。
「霧雨が降ってたよ。タスキがけをしていったんだ」椿原金吾。夜9時に行動が始まり、11時には田原大隊長の訓示があった。恩賜の煙草が配られ、水杯の回し飲みが行われた。

夜襲部隊は田原大隊長を先頭に、アレン湖の湿地を避け夜襲隊形で前進していく。
「旗に従って、前進するだけだったよ」椿原金吾。
 兵たちは防音に気を使った。しかしロープで引っ張る速射砲・大隊砲の車両がカタコト音をたてる。
 始めは、事前に斥候隊が立てた方向を示す表示があったが、やがて雨と暗闇のために方向を見失ってしまう。

 45キロ進んだ29日午前1時。雨がやみ始めたが、暗闇に何も見えない。午前130分田原大隊長は単独で761高地占領を決意し、2キロほど前進した。ここで方向が西に大きくそれてしまった。ここで「敵兵発見」となったが、午前三時ころ当初目指した窪みが目的地でなかったことが判明し、最初に占拠した「田原山」と名付けた高地に戻ったという話もあるが、不明である。
 午前3時頃、夜が明けた。「敵兵発見」の報告と同時に、右稜線上に無数の黒点が見え始めた。ソ連軍戦車である。
「機関銃前へ」の声と、「近々散開」と同時にダダンと曳光弾の猛射を浴びた。黎明の遭遇戦となった。鉄と肉との戦いである。日本側に戦車はない。限られた数の砲だけが、戦車に対抗できる唯一のものであった。
「草原に伏せるしかないんだ、壕もなにも掘ってないよ。伏せるだけだ。敵の戦車からは、こっちが見えるんだろうね」椿原金吾。
 機関銃中隊の兵士も、円形地雷を抱いて次々に戦車に突進していくのが見えた。菊池政二上等兵が戦車を停止させた。
「速射砲はあったよ。敵戦車にあたったかどうかは見る余裕がなかったな。私たちの近くで大隊砲(近藤中尉)が、撃っていたのを見たよ」椿原金吾。彼の機関銃は、突撃肉薄攻撃を援護するために猛射をあびせていたが、「何発撃ったかもわからないね。弾丸を運んでいた時に戦車砲がきたんだ。手をやられたよ。痛いも何もなかったよ」。
 この砲弾は椿原一等兵の第五分隊
8名のうち4名を、一瞬のうちに吹き飛ばした。鈴木一等兵平井一等兵が戦死し、椿原一等兵と高島上等兵が重傷を負った。

「ほらっ、今も左手が冷たいでしょ。歩けなかったよ。砲弾の破片が、貫通したんだ。いつしかトラックに乗せられてね、ハイラルへ送られたよ。敵の戦車だけを見たんだ、ソ連兵なんて1人も見ていないよ。飛行機の攻撃も受けたな。隣の分隊の同期の高田が足をやられたよ」椿原金吾。

壮絶「田原山」の死闘  

「確かに飛行機にも攻撃されたけど、足をやられたのはその前なんだ。機関銃だと思うよ」高田光夫。
「僕らの機関銃中隊は92式重機関銃というやつで、馬が運んでいたよ。銃弾は30発でひと固まりだよ。
 三浦見習士官の小隊長(第4小隊)が機関銃の前数百メートルにいて、その次に一番の私が機関銃前方にいて、機関銃に指示するんだよ。声が大きかったので、その一番に選ばれたんだね。四番が射手だよ。銃身が熱くなるので、二番が予備の銃身をもち途中で取り換えるんだ。戦車に踏ませる地雷も、持って行ったね。

ソ連の戦車が、300メートルほど先に見えたよ。日の丸の旗を挙げているんだ(これは大隊砲中隊の複数が目撃している)。友軍だと思ったからね。5  6台かな。戦闘が始まってすぐに、五番の斉藤が狙撃されたよ。頭をね。ソ連は一キロ先から八倍のレンズを使い正確に狙撃してくるんだよ。眼鏡を狙われたんだ。目立つからね。分隊長は宮崎伍長だったよ。9名の分隊のうち3名戦死3名負傷だけど、いつ誰がどうやってやられたかなんてわからないんだ。もう夢中だからね」高田光夫。

機銃が、高田一等兵の足を打ち抜いた。
「戦車のものかどうかそれは分らない。前からではなくて横からきたね。左ふくらはぎが撃ち抜かれて、弾の抜けた内側は石榴のように裂けててね、ものすごい量の血がでて砂地にしみ込んだんだよ。宮崎伍長が衛生兵を呼んでくれてね、応急処置をしてくれたよ。そのあと初年兵の及川ともう一人が後方に運んでくれたんだ。だけど飛行機が次々に現れて、強烈な機銃掃射を受けたな。大勢やられたと思うな。窪地にいたから助かったけど。こんなところで死んだら馬鹿らしいとも思い始めたな」。
ソ連が作って捨てた浅い壕の中に入った後、初年兵が深い壕に運んでくれた。

「そこは立派な壕で、機械掘りだったな。深さ2.5メートル位でね、丸太が組まれていて天井にも土が盛られた立派なものだったよ。そこに一人ぼっちで居たんだ。壕の中は本当に何にもなくて、食べ物も水もなんにもなかった。一晩過ごし、次の日も誰も来なかった。もうどうにでもなれと思ったし運命だと思ったけど、こんなところで死ぬのは犬死で馬場かしいとも思ったな」高田光夫。

830日の夜、ふた晩目の月明かりの中に、人の声がした。日本語だった。五人くらいの兵隊が入ってきた。それは、第3大隊砲小隊の兵たちであった。
「後で分かったんだけど、近藤武通中尉とその兵隊たちだったんだよ。水筒に穴があき、水もなかったし、その五人もなにも持っていなかったよ。その中の一人が、あれっよくうちに買い物に来る高田さんじゃないかと言い出したんだ。同じ芽室町の高橋五郎だったんだよ。それで彼らは板をかき集めて担架代わりにして、私を後方にその夜運んでくれたんだよ。後方の野戦病院だってなんにもなくてさ、ただ掘った穴の中に寝かされているだけさ。脇を人が通るたびに砂が穴の中に崩れ落ちてさ、二回ほど砂で埋まってしまったよ。練乳を飲まされて、少し生き返ったような気がしたな。その後一年間入院生活で、松葉杖だったよ。今も左足法が右足より短いよ。65キロあった体重が40キロ台になったよ」高田光夫。

  
  
                      
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