HOME>nomonhan                                          Nomonhan>mongolia >Aug 2010



             ノロ高地と731高地 第26連隊の死闘
             
                     ノモンハン事件現地取材2010夏 その5               
                                                      
                                                 十勝毎日新聞にて連載
  モンゴル国ドルノド県                                              2010 8
         
               
                 〈南側からノロ高地周辺を見る。砂丘地帯が続いている。2010 8 9〉
  
 
     <ノロ高地では空き缶類が次々に現れる〉
  
  
   
    
 
  
      〈ノロ高地の中心部から北東を見る)
 
 
         〈バルシャガル西高地での慰霊)
 
 
      
〈そばにあるソ連側のレミゾフ高地での慰霊〉
 
 

          731高地での慰霊〉

ハルハ河東岸へ

 201089日、バインツァガンを訪問した私たちは、その足でハルハ河を渡り激戦地として名高い「フイ高地」を目指した。ところが直前の前夜、モンゴル人ガイドのゾラさんが、「ここの橋は、最近洪水で流されてしまいました」と、言い出した。
「しまった」。私は、基本的な確認作業しないまま来てしまったことを後悔した。
 ハルハ河を渡る橋は現在わずか一つ、スンベル村の南端にある物だけである。フイ高地は、諦めざるを得ない。更に「国境警備隊」での手続きも済んでおらず、私たちは元来た道をスンベル村に戻った。
 案の定、スンベル村の「国境警備隊」での「入域手続き」には時間がかかった。焦っても仕方がないが、時間だけがどんどん過ぎる。一週間同行しているモンゴル人スタッフものんびりして、私だけがカリカリイライラ。ピクニックのように昼食を取り出しては食べ、時間を潰した。

午後になりようやく私たちは、ハルハ河を渡り「戦場」の南端、激戦地「ノロ高地」を目指した。
 車の踏み跡もない、砂丘地帯を進む。GPSの数値だけが頼りである。砂丘地帯を車が進めなくなると、私たちは車を飛び降り歩き始めた。私がGPS機器を見て先頭を進む。
「このあたりか」。周辺はどこも砂丘である。この周辺一帯が「ノロ高地」なのであろう。大きな砂丘の窪みに私たちは駆け下りた。
 足首まで埋まる「砂地」。これが「ノモンハン」である。砂地をショベルで掘り返してみる。たちまち当時の遺品が姿を現した。数々の「空き缶」や「薬莢」そして、砲弾の鋭い破片である。
 数多い空き缶を見ると、「ご飯」類を詰めたものが多い。そして蓋のついた「アルコール携帯燃料」である。兵士たちの生活が確かにここにあった。そして、この「砲弾の破片」で斃れていったことがわかる。

この高地で斃れた兵士の数を知る統計は、見あたらない。あまりにも多くの部隊が入れ替わり立ち替わり、ここで激戦を重ねてきたからである。ただ北海道北部を中心に編成された第28連隊第2大隊(梶川大隊)も、この台地でほぼ全滅している。
 あまりの生還者の少なさに、私はその戦闘を実像を知らぬままこの地を訪問してしまったのである。
 その足で「ホルステン河」を渡ろうとするが、直前に「国境警備隊チョクトン兵舎」がある。ここで「入域」の再度の手続きである。「またか」。
 しかも狭い車内に、係官の兵士が乗り込んで来た出はないか。彼は、私たちが「中国国境を越えはしないか」というまさに「監視役」である。これは想定内であるから、じたばたする必要はない。
 私たちの車は「ホルステン河」を渡った。近年の地球温暖化で、涸れ河と聞いていたがちゃんと71年前と同じように水の流れがある。感動したと同時に、橋はなくラウンドクルーザーゆえに渡河できたものの、増水時には明らかに渡ることはできないであろう「幸運だ」。

私たちは「川又地区」と、「バルシャガル西高地」を進む。ノロ高地と同様に砂丘地帯が続き、なるほど日本軍が、布陣しやすい地形が連続している。多くの兵士がここに蹲っていたのであろう。
 私たちは激戦地として名高い「東捜索隊全滅の地(川又地区)」「菊形砂丘」「レミゾフ高地」「野戦重砲兵第一連隊陣地跡」などで、風雪に晒され倒れかけた慰霊碑を直しては、慰霊を重ねた。 
 もっとも印象的なのは、「野戦重砲兵第一連隊陣地跡」である。8月末のソ連軍の総攻撃でほぼ全滅するこの部隊は、全滅間際多くの兵士が互いに刺し違えて玉砕したとされている。また6年前に遺骨収集が実施され、16体が収集されている。
 この地域には多くの観音像などが遺族団体などによって建てられてきたが、現在は一つも残されていなかった。多くが現地人に壊されたり売り飛ばされたりしていると考えられるが、同行した軍人は「日本人が持って帰ったのです」と言う。
 持って帰るはずはないのであるが、帰国後今年22回目の慰霊訪問をする永井正氏(横浜市 当時関東軍情報将校)は、「理由が数多くあって、私たちが壊して埋めたのです」と言う。

生田大隊731高地と「兵士の涙」

「父の最後の行動と消息ですが、最後まで生き残った戦友の方々(推定30人)も正確なことは不明のようです。8月27日須見連隊長から撤退命令が出て731高地を脱出し、100名程度の生存者がホルンステン河の旧工兵橋に向かったようです。途中で敵戦車に包囲され殲滅されました。したがって父の最後の場所は,旧工兵橋付近と思います。
 戦死公報では731高地となっています。遺体は停戦後発掘され、血染めの軍靴(皮の将校長靴)が遺骨とともに戻ってきました」、こう話すのは生田まこと(敬称略 札幌市)である。
 第26連隊第一大隊は安達大隊長が戦死した後、新たに生田大隊長が就任している。バインツァガンの戦いの後、最後は「731高地」周辺に配置され、ここでソ連軍の総攻撃を受けている。当初850名だった将兵が、最後には30名ほどになった悲劇の大隊である。生田まこと氏は、その生田大隊長のご子息である。

彼らの布陣した「731高地」は、必ず訪問したかった。午後6時を過ぎ日が傾く、私たちは急いだ。再びGPSを頼りに、草原の砂丘を進む。「731高地」周辺は、ノロ高地と同様の砂丘がつづき、ハルハ河の方向に向かって身を隠しやすい地形が続いていた。私たちはすり鉢状の大きな窪みの中に駆け下り、遺品を掘り返す。すると薬莢や金属片などが次々と現れた。
 バインツァガン、ノロ高地、731高地と、北海道出身者1500名が眠る戦場をこの日私たちは巡った。僧福家君の読経が、夕闇に響く。
 すると突然空からポタポタと、雨粒が落ち始めた。「兵士たちが泣いている」と、誰もが感じた瞬間であった。日没が迫っている。私たちは帰路についた。
       (みのぐちかずのり 北海道本別高等学校教諭)

  
                 
                 夕闇迫る731高地 コマツ台が後方に見える。2010 8 9 午後5時50分〉


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