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別荘地と捕虜収容所 メイミョー
ミャンマー連邦 2009 3 十勝毎日新聞にて連載 2010「月刊 歴史地理教育」に連載
<メイミョウのランドマーク「時計台パーセルタワー」とモスク>
<乗り合いタクシーの運転手さん>
<土の色が赤いのが特徴である。)
(当時の雲津金蔵さん 左下)
インパール作戦の前戦司令部のあったインタンジー村を訪問した後、私はそれ以前の軍司令部跡を是非訪問したいと考えた。
ミャンマー(ビルマ)の中央に位置する大都市マンダレーから東に目を向けると、広大なシャン高原に続く山並みを見渡すことができる。そこに向かって乗り合いタクシー(約400百円)で整備された道を登ること一時間半、「メイミョウ(ピンウールイン)」にたどり着いた。
人口5万人ほどのこの小さな都市は、標高1200メートルに位置し。エアコンのない時代猛烈な下界の暑さから逃れるために英国が植民地時代に作りあげた「避暑地」である。ビルマを占領した日本軍首脳は当然ながら、この快適な地に目をつけた。彼らは英国人の建物をそのまま使用し、いつしか「ビルマの軽井沢」と呼ばれるようになったこの地に、慰安婦はもちろん料亭(清明荘)と芸者を持ち込み、連日酒宴と芸者遊びに現を抜かしていた。
それぞれがお気に入りの芸者をもち、時には芸者の奪い合いをしたという。そんな堕落の生活の中で、「インパール」への作戦計画は練られたのである。
作戦開始から一ヶ月間、牟田口軍司令官は戦線から400キロ以上離れたこの地から、作戦遂行を指示していた。そして午後5時には、欠かさず芸者遊びと酒宴に臨んだという。メイミョウの町は、とにかく天国のように涼しい。雲の位置がとたんに低くなり、まさに高原の別荘地である。
終戦後、多くの日本人の捕虜たちがここで収容所生活を送っている。その一人に白糠町にお住まいの雲津金蔵さん(88歳)がいらっしゃる。
「捕虜は2 3千人ほど、いたと思いますよ。寺の使役や、建物の建築などをしましたね。週1回くらいは、日本人の野球チームの試合もあったんです。英軍の大半は、インド兵でした。食料にはやはり苦労がありました。外套の下に食べ物を隠しているのが発見されて、10人ほどが撃ち殺されてしまった事件もありましたよ」司令官たちとの生活の違いを、まざまざと感じる話である。現在その収容所跡も軍用地になっており、軍施設が立ち並んでいた。
かつての司令官たちが使用した英国人別荘は、その多くが現在リゾートホテルとなり、多くの欧米観光客で賑わっていた。彼らはどんな気持ちで、利用するのであろうか。
マンダレーに帰る乗り合いタクシーは、客が揃うとイギリスが整備した道を下った。街路樹が続き、ピンク色の花が咲き乱れていた。往路でも目にしたこの花はいったい何の花だろう?
帰国後、雲津さんから電話を頂いた。「メイミョーにいらしたんですね。桜が、咲いていたでしょう」 あっ、私は思い出した。
そうか、桜だったんだ。雲津さんは、1946年正月の桜を目にしていたわけである。2009年1月8日、ヤンゴンから週2日だけ飛ぶ台北行きの便で私は、この国を離れた。訪問した11日間、乾季の乾燥した晴天が何の変化もなしに続いた。
眼下には、巨大な川が横たわって見える。シッタン川であろう。この国は大河と、平野の国である。そして20万の日本の兵士が眠る国でもある。「いったい何のために、この地に送られたのか。そして何のために、この地で斃れなければならなかったのであろうか」
その答えがでるまで、私の旅は終わらない。