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              悲劇の撤退渡河作戦ミッチーナ                                             


 ミャンマー連邦                       2009 3 十勝毎日新聞にて連載 2010「月刊 歴史地理教育」に連載
         
             
                 <カチン族のナンシーラムさんとツァカウさん  ミッチーナで 2008 12 30>

  
 
     <広大なエーヤワディ川を機内から眺める>

  
      <お世話になったフランス製のプロペラ機>
 
   <連合軍の空挺部隊によりたちまち占領された空港>

 

     <エーヤワディー川と中州のノンタロー> 

          
            
 (名将水上少将)

 
    
  (坂口さんたちが建てたスタウンジーパヤー)     

ミャンマーの首都ヤンゴンから真北に一千キロ、ミャンマー北部カチン州には150万人ほどの少数民族カチン族が暮らしている。
 その州都「ミッチーナ」も、太平洋戦争末期の激戦地として名高い。東側には中国雲南の山並を望み、中国国境まで70キロほどである。人口数万の小さな都市であるが、ビルマ北部の要衝として大戦中日本軍も重要視していた。
 私がそのミッチーナを訪問したのは、2008年12月30日のことである。ヤンゴンからプロペラ機で約3時間、ミッチーナ空港に到着した。

この空港(飛行場)に、数百キロの密林を越えた連合軍の挺身隊が現れあっという間に占領したのは、昭和19年5月17日のことである。飛行場を押さえた連合軍はたちまち、輸送機・グライダーを着陸させ、計4万5千の兵力を送り込んだ。その多くは米式の近代武器と戦術を身に着けた国民党軍の中国人兵士であった。
 当時この町の日本軍守備隊は、福岡県を中心とした第18師団第114連隊の3千足らずであった。急遽日本軍は増援部隊を送ったものの合計5千ほどであった。その後3ヶ月間ミッチーナ市街では、死闘が続くことになる。

連合軍は補給を、すべて飛行機でまかなった。戦車から大砲・牛馬まで空輸し、傷病兵はもちろん疲労した兵士もが空輸によって直ちに交代させられた。
 一方日本軍の補給は、瞬く間に停止した。ビルマの中心マンダレーからの鉄道路が、英軍のグライダーとパラシュートの空挺部隊によって各地で寸断されたためである。そして約100キロ西の「死の谷フーコン」でも、日本軍は壊滅寸前であった。

町の東側には、アジアを代表する大河エーヤワディー(イラワジ)川が流れている。上流地域とはいえ5月からの雨季には堂々とした大河となる。西側から迫る連合軍に対して日本軍は文字通り「背水の陣」を敷いた。町は廃墟と化し、雨季の大雨は町を泥濘とした。ここでも兵士は泥の中に眠り、泥の中で斃れて行った。

三ヵ月後の八月初旬、大河エーヤワディー(イラワジ)を渡り、東側へ撤退することが決定された。すでに5千の将兵は、1500になっていたという。日本軍は深夜の闇に紛れて、粗末な丸木舟や筏を使って川を渡り始めた。生き残ることを諦めていた兵士たちに、「生きる」ことへの渇望が蘇った。我先へと渡し舟に群がる兵士が、続出した。
 「恥を知れ。お前たちはそれでも神軍の兵隊か
!」と上官が怒鳴る。それでも殺到し、船に手を掛ける兵士たち。その手首を日本刀で斬り落とされたり、その場で射殺されたりした兵士が続出したという。阿鼻叫喚の後、650名だけが生き残った。
 私はその河岸に、真っ先に向かった。乾季のこの時期は水量も少なく、川の流れもゆったりとしている。住民が洗濯はもちろん、水浴しているのが見える。この町の死守命令を受けた守備隊長水上源蔵少将は「ノンタロー」と名付けられた河の中洲で、拳銃自決している。
 水上少将は兵士の撤退を進め、犠牲を自分の死だけで済ませた「名将」として名高い。そ実息水上澄さんが、東京都東久留米市にご健在であった。
「10年ほど前までは、毎年のように慰霊に出かけておりましたが、最近はいけません。父が亡くなったのは57歳の時です。私は当時23歳でしたから、その時のことはよく覚えていますよ」。

 その中州を眺めていると、若い女性がこちらを向かってニコニコしている。地元のカチン族の女性である。17歳のナンシーラムさんと18歳の大学生ツァカウさんである。おしゃれの「茶髪」が、現代的である。
 勇猛果敢なカチン族は、イギリス植民地時代からイギリスの指導のもと果敢なゲリラ戦で日本軍を苦しめてきた。戦後も1961年からミャンマー政府を相手に内戦を続け、停戦協定が結ばれたのもつい1994年のことである。宗教的にも反ビルマ人支配の立場からキリスト教プロテスタントが大半を占め、女性も自由闊達な生活ぶりである。

 「お酒を飲んだり、ステージで歌ったりするのはカチンの人々なの。この町の
50パーセントはカチン族で、30パーセントがビルマ人ですね」と地元で日本語教室を開いているキン・ミャミャさんは語った。
 カチンの人々は自分たちのことを「ジンボー」と呼ぶ。「私たちは、ジンボーです」という言葉を私は幾度も耳にし、その誇り高さに感心させられた。

 町の北部に「スタウンジーパヤー」という大きなパゴタ(仏塔)がある。福岡県飯塚市にお住まいの元兵士坂口睦さんが中心となって建てたものである。日本語で書かれた慰霊碑がある。遠国で見る日本語は、いつも悲しい

  ◆ミッチーナへの行きかた
 
 道路状況が悪く、バスの便が存在しないのが特徴である。ヤンゴンから飛行機(1000`)が確実であるが、前日まで実際に飛ぶかは分からない。利用者が少なく採算が合わなければキャンセルとなるだろう。私が利用した「エアパガン」は確率が高い。運賃は、ヤンゴンの旅行会社で155ドル支払った。この国の物価を考えると、安くは無い。マンダレーからも乗ることはできるだろう。

 鉄道はある。これはキャンセルされることはないが、時間はかかる。ミッチーナからマンダレーまで400`。午前7時発の列車を利用したが、22時間かかった。遅れると、もっとかかることになる。sleeper 四人個室の寝台のチケットをミッチーナの駅で購入できたが、料金は32ドルであった。外国人枠があるようで座席番号は一番であった。地元の人が一両しかない(定員22名)個室寝台のチケットを手に入れるのはかなり難しいらしい。
 食堂車は無いが駅に頻繁に停車するため、食事には困らない。大変な数の物売りの方々がやってくる。駅弁は50円程度である。
 困るのは、夜の寒さである。暖房はなく、窓が開けっ放しのままで驚くばかりであった。冬季は毛布を買って乗るとよいだろう。私は本当に寒くて眠れなかった。

 ホテルは「地球の歩き方」に出ているように、存在する。シングル15ドルでまずまずであった。停電はあり懐中電灯は必要。夕食は200円程度で済ませることができる。 
      
                          
                     
   <ミッチーナの青空マーケット。素朴な生活が残っている>

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