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死の谷 フーコン
ミャンマー連邦 2009 3 十勝毎日新聞にて連載 2010「月刊 歴史地理教育」に連載
<オウンチーさんは搾り出すように当時の体験を語る ミッチーナで>
<現在のレド公路 一車線分の舗装路 バイクタクシーから>
<橋は木製だ。ミッチーナからモガウンへの道>
<周辺に暮らす少数民族。男たちは蛮刀を下げていた>
<モガウンの町からフーコン谷方向を眺める>
「死の谷フーコン」とは北部ビルマからインド国境に向かって、南北約200キロ東西30から70キロに広がる密林に覆われた巨大な「盆地」である。
太平洋戦争では昭和18年末から反攻に転じた連合軍が、インド側からこのフーコン渓谷を横断してビルマと中国を結ぶ大輸送路「レド公路」を建設し、抗日戦を続ける蒋介石の国民政府への補給路とすることを目指した。
連合国側も必死であった。大戦初期日本軍に抑えられてしまったかつての「援蒋ルート」の代替ルートとしてこの「レド公路」が密林の中に切り開かれていった。彼らはこの道を「東京への路」と呼んだ。この連合国側の思惑を阻止するために送り込まれたのは、福岡県を中心に組織された第18師団のうちの約5千名(4千名が死亡)である。
「フーコン」とは地元カチン族の言葉で「死の谷」を意味する。半年間続く雨季には世界一の多雨地帯となり、深い霧を伴いそれが兵隊たちの体温を奪った。「実はフーコンは、寒かったんですよ。壕の中に草を敷いて、寝たんです」と当時激戦地タイパカで砲兵連隊本部に居た古野義章さん(八八歳 福岡県直方市)は語る。
そして吸血ヒルが、兵士たちに群がった。またマラリア・アメーバ赤痢に代表される熱帯特有の瘴癘の地であり、現在も野生の象・虎が生息しているビルマ最奥の地でもある。
飛行機を中心とした近代兵器と約10万の兵員という圧倒的な連合軍に対して、小銃を主兵器とする日本軍はあまりにも微力であった。兵士たちは泥の中で集中砲火を浴び、泥の中で眠り斃れていった。
撤退路は、ここでも「白骨(靖国)街道」となった。補給を断たれた日本兵の遺体が、道端に続く路である。現在もフーコン谷には、町らしい町もなく路面状態もよくないらしい。私はせめて、渓谷入口の要地「モガウン」までは行きたかった。滞在したカチン州の州都ミッチーナから約60キロの距離であるが、列車や乗り合いトラックの便も限られ、少年(パーミュー君18歳)の運転するオートバイの後ろに片道2時間揺られようやくたどり着いた(往復約600円)。
途中集落らしい集落もなく、少数民族が静かに暮らしているだけである。男性は腰に蛮刀を下げている。かろうじて片側一車線の舗装道路が続いている。橋も木造の粗末なものだけで、なるほどこれでも路線バスも運行できない。この路もかつての「レド公路」にあたるが、当時とほとんど変わっていないであろう。
要衝の地「モガウン」の町は、町の体裁はあるものの素朴な駅舎があるだけである。多くの兵士たちはこの駅で降り、「死の谷」の奥地に送られた。
この駅舎も真っ先に連合軍の空襲の対象になり、戦争末期は跡形も無くなったという。外国人が訪問することは滅多にないようで、私の周囲には人垣ができる。
私はミッチーナで、このモガウンで日本軍の手伝いをしていた女性と会うことができた。シャン族のオウンチーさん(85歳)である。
「モガウンにいた15歳のときに日本軍がきて、野菜を運ぶ仕事をしました。3ヶ月間日本語も習ったんですよ。私はミッチーナから列車で運び、モガウンから自動車でカマイン(モガウンから北へ約40キロ)まで運びました。ケンペイタイが列車の切符をくれました。アメリカ軍の飛行機に、襲われたこともありましたよ」
「多くの兵隊が、亡くなりましたよね」という私の質問に、オウンチーさんの顔はゆがんだ。思い出したくないようであった。
「母は日本の歌を時々歌います。アメアメ フレフレ カアサンガ などです。そういえば、こんなものがあります」息子さんのソーリィさん(60歳)が私に差し出したのは、兵士が使用していた「飯盒」であった。錆ひとつなく、現在でも充分使用できそうである。
「カマインで見つけたのですが、名前が書いてあります。読んでください」飯盒の蓋には紛れもなく兵士の名前が刻まれていた。「尾崎イサム」私にはそう読み取れた。
◆モガウンへの行きかた
カチン州の州都ミッチーナーからは、路面状況が悪くバスもない。乗り合いトラックのようなものがあったが、バイクタクシーが現実的だろう。
鉄道線路もあるが、本数速度など現実的ではないようだ。
外国人の市外への訪問は禁止されているようだが、地元の人々は歓迎してくれる。