HOME>Burma Yangon>Myanmar >Dcem 2008
民主化運動と国民生活
ミャンマー連邦
<殺害された長井さん 後ろのサンダル履きの兵士に射殺された>
<民主化の拠点 スーレーパゴタ通り>
<長井さん殺害現場。警察署の前であった)
(上の映像は、下のホテルから撮影された
中心部にあるトレーダーズ ホテル ヤンゴン)
〈ヤンゴン市内はこのような雰囲気〉
〈電話屋さんが繁盛している〉
〈ガソリンは瓶に詰められ売られている〉
2007年9月末日本人フリージャーナリストの長井健司(当時50歳)氏が、ヤンゴン市内でミャンマー国軍兵士によって射殺された事件は、私たちにとっても記憶に新しい。当時ミャンマー国内には「民主化を求める」僧侶と市民による反軍政運動とそれに伴うデモが各地で起こり、それを軍政府は「力」で押さえ込んだ。
その長井健司(当時50歳)氏殺害現場は、現在どうなっているのであろうか? 私はヤンゴンにたどり着くと、真っ先に現場に向かった。
現場は、テレビニュースなどを見る限りヤンゴン中央駅からこの町のランドマーク「スーレーパゴタ」に延びるスーレーパゴタロードつまり、ヤンゴン市内第一のメインストリートに位置していた。何人かの人びとに声をかけてみたが、返答がない。そのうち少々日本語を話す男性二人が、近づいてきた。
彼らの商売の話にはのらず、私は長井さんの話を切り出した。そして現場に連れて行ってもらった。「殺されたのは、警察署の前です。写真はやめた方が良いです」
結果的に現場周辺をウロウロしているうちに気がついたことは、会社関係者が後日道ばたに添えた花束は実際の殺害現場からやや離れたところだったこと。そして周囲は当時の映像と比べると、歴史の風化を進めるためか、周囲の歩道などの改造が進んでいることである。
事件そのものは、事前にマスコミ関係者をマークしていた軍政府が、群衆の中に長井さんを発見し、携帯電話で発砲許可を得た直後に射殺したらしい。
フィリピン、タイ、インドネシアなどの東南アジア諸国が、90年代後半以降おおむね民主化への道を歩んでいるのに対し、ミャンマー(ビルマ)では、軍による強権的支配体制が長期に継続している。「民主化運動」の象徴アウンサンスーチーもこの2007年の運動の直後、自宅軟禁から刑務所(インセイン刑務所)への収監という措置がとられたらしい。その後彼女の消息は、ほとんど報じられなくなっている。
現政権が、もっとも親密にしているのは隣国中国である。両国はお互いに政策を参考にしあっている。もっとも象徴的なのは「民主化運動」に対する対応である。1988年8月の弾圧では実に千名以上の射殺者を出したか、直後の翌年に起こった中国での民主化運動に対して、中国政府はミャンマー軍政権とほぼ同じ対応をしている。いわゆる「天安門事件」である。今回の訪問でも私は「今の政府は、なんでも中国の真似をしているんです」という声を幾度も耳にした。
1962年からこれまで実に46年の長きにわたり、軍による政権がつづいている。この異常さに国民のある人は「私たちには、武器がありませんから」という言葉が返ってきた。まさに軍はその軍事力を「他国からの脅威」に対して向けているのではなく、己の政治的権力を守るために「自国の民」に向けているわけである。
政治体制は、日本の江戸幕府による幕藩体制によく似ている。武士である軍人が政権をとり、都合の良い貿易だけを継続して、原則的には外国人を閉め出す「鎖国」政策を取りたいわけである。
国 民 生 活
当然ながら国民生活には大きな制限が、設けられている。日本の軍政が持ち込んだ「五人組制度」のような監視体制を始め、五人以上の人間が集まる(集会)ことも禁じられている。
そもそもマスコミの存在はゆるされず、国営新聞や国営放送が独占の形になっている。テレビは国営放送がひとつだけで、しかも「ニュース」番組などはほとんどないようだ。国民には真実を何も知らせない、国づくりがここに見える。人々の多くは衛星放送の「韓国ドラマ」に、夢中にさせられている。国民は「あきらめの」中にも、情報に飢えている。地方でも町中には、インターネットカフェが数多くあった。とても繁盛している印象をもった。パソコンは高額な上に、登録制度でなかなか一般市民の手に入らない。更に驚いたことに本当に、インターネットそのものも管理されていた。ne.jpが末尾につくアドレスには繋がりにくいようになっていたし、ウェブメールは送信できない場合が多かった。個人のメールについても、政府に盗聴(?)されている場合があるという。
外国人に対する対応
外国人の入国にも、一定の制限が設けられている。ビザの発給に関しても、マスコミ関係者を排除する目的で、「職業を証明する書類」の提出が求められている。
更に入国した外国人の動きにも、目を光らせている。「パセンヨー」と呼ばれる密告者が町の中にいて、住民達の動きと同時に外国人の動きも監視している。私も「あなた達外国人は、いつも見張られていますよ」と忠告された。「でも、中国人や日本人は大丈夫です」という。なるほど、私には尾行はついていないようだ。
しかし、密告はあった。外国人制限地域のカレーミョーにたどり着いた日、ホテルにたどり着くと警察がフロントで待っていた。彼は、ウイスキーのにおいをプンプンさせていたから、「外国人がローカルバスに乗り、この町についた」という通報が、彼に届いたのであろう。そして私をホテルまで乗せてきた自転車タクシーの少年を、執拗に問いつめている。
私はその前日に200キロ離れたサガイン管区の中心都市モンユワで、出入国管理局を訪問し、直接チーフオフィサーと対面して「書面」はないものの「入域許可の確認」を済ませていた。その事情を説明し、合法的な入域であることを主張した。
外国人の扱いに対する制限は、他にも「外国人と接触した後の報告の義務」「外国人の自宅への宿泊の禁止」などが、ある程度現在も行われているようだ。
このように、外国人に対する制限は必要以上に多い。特に国境に近い大半の地域では、外国人の立ち入りが制限されている。これを「オフリミット」地区と呼ぶ。
この「制限」には三種類があり、一つは完全に外国人の立ち入りを禁止するもので、これは少数民族との紛争地帯などで一般国民にも適用されている。もう一つは、「ヤンゴンからスルーのガイド付き」を条件に許可証を発行して外国人の入域を認めるもので、多額の経費と許可のための時間がかかる。三つめは、飛行機・鉄道などの特定の交通機関を指定し、その町あるいは一定の地域の訪問を許可するものである。
これらの措置は、法で定められているはずもなく、管轄もあいまいで、警察・軍・観光省・出入国管理局などによって対応はバラバラ、しかも状況は現場におしてしばしば変わるようで、混乱している。
しかも一般国民にはこのことが全く知らされていないが、観光に関わる「旅行会社」「ホテル」などには厳しく指導が行き渡り、私たち外国人の奥地への移動を妨げていた。なぜこのような措置が、取られているのであろうか。一つは「民主化運動対策」として、一般国民と外国人(特に民主主義を当然とする欧米人)との接触を避けたいこと。ひとつは、国境地帯に多い少数民族とのやはり外国人の接触を避けることにあるようだ。ビルマ人中心主義を取る政府は、知られていないが現在も少数民族に対して弾圧・迫害(強制労働など)を繰り返している。その現実を、世界に知られるわけに行かないのである。表向きは「治安の悪さ」「麻薬取引の危険性」などをあげるが、真の理由はそこにあるようである。
穏やかな国民性と仏教に対する深い信仰心の人々、この国は表面的には平和で平穏な暮らしが続いているように見えるが、その裏には恐るべき「恐怖政治」の実態が、現在も続いていることを忘れてはならない。