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   ウツワ湾と9月8日の謎
                              コスラエ島

  
ミクロネシア連邦                       
 
 
                          〈ウツワ湾 エセン山が見える〉

 
  













〈語るオーガスタさん〉


        
        〈現在もウツボがとれる。味は大味〉

 

 

  
     〈伝統料理「ウム」の準備をするバーニーさん〉

  
            〈土中で蒸し焼きにする〉

   

  
        〈現在は野生のブタもいる ワラン地区で〉

  
          〈どこも美しいワラン地区〉

  
    

 

こうして佐藤豊春の第8中隊は、103名のうち35名が食糧不足のために死亡した。私が、戦友会の名簿上で数えてみると、大隊本部と第7中隊には死者は見当たらないが、第9中隊には死者33名・機関銃中隊16名、そして歩兵砲中隊にいたっては40名もの死者を数えることができた。

佐藤豊春の第8中隊以外の兵士たちは、どんな体験をしたのであろうか。同じ第3大隊機関銃中隊の元兵士のお二人から、直接お話を伺うことができた。

「そんなに沢山亡くなったような気は、しないんですがねえ」 と話すのは北海道大空町にお住まいの竹内正義(大正9年生) さんである。しかし、「やはりね、大勢亡くなりましたよ」 と話すのは、同じ北海道北見市にお住まいの斎藤勝(大正10年生) さんである。お二人は同じ機関銃中隊の、戦友であった。

「私は、分隊長をしていました。自動砲と呼ぶ対戦車砲を扱っていました。12ミリ砲ですが、たった2台しかありませんでした。

 陣地づくりは施設部隊が担当して、私たちは島の南にあるエセン山という山の中腹に、この自動砲を入れておく壕を作っていたんです。それができると、兵器の手入ればかりしていました」竹内正義。

「私も分隊長をしていましたが、私の分隊は機関銃です。92式重機関銃というやつで重さが55キロもあって、四人で担ぐんです。第1大隊と第2大隊が実戦部隊にされて、私たちの第3大隊は予備部隊ということになっていました。つまりアメリカが上陸してきたら、まず第12大隊が戦うというわけです。ですから、私たちの中隊ははじめからエセン山の山奥にいたわけです」斉藤勝。

私たちは、この「エセン山」を探した。地元の人によると、
「現在、その名の山はありません。イェセン川はありますから、その上流にあるオーマー山のことでしょうね」と、言う。
 なるほど密林を覆われた山が見える。

「やっぱり、食べ物には困りましたよ。上陸してすぐ空襲を受けて、港に山積みされていた食料がほとんどやられてしまったんです。すぐに現地自活ですよ。パン・椰子の実にサツマイモです。現地人の物は、絶対にとってはならんという厳命が出ていました。椰子の実ひとつ、勝手に取れませんでした。椰子の実警備隊というものも、あったんですよ。食料に困った私たちは、食料を調達する漁労班を作って、島の南にあるウツワ湾で魚を取り始めました。
 そうそう、斎藤がはじめその漁労班長をしていました。昭和20年に入って、私と交代したんです。
 半年ほどその漁労班長をしました。だから私は、栄養失調にならずにすんだんです。地元民は、海にもぐって海中の弓で魚を獲ったりしていました。私らには、そんなことはできませんよ。網を編んで、獲る程度です。ウツボやキンキのような魚を獲りました。ウツボに噛まれて、怪我をする兵隊もいました」 竹内正義。

私たちは、そのウツワ湾にたどり着いた。波のない穏やかな、入り江が広がっている。現地の人々に、佐藤豊春たち兵隊が収容された療養所のことを聞くがなかなか分からない。

200年前の海賊船が沈んでおり、その財宝が近辺の山中に隠されている黄金伝説もある。

「イモを植えたりしました。簡単には大きくならないですからね、野草も食べましたよ。蛇は、クサイエにはいないんです。 ネズミは、食べました。焼いて皮をむき、内臓を抜いてね。海の魚は豊富だったけど、道具がないんですよ。カジカのようなものもいたし、大きなえびもいてね、さんご礁の間にいるのを手で獲ったりしたね。
 木をくりぬいてガラスを張った、手作りの水中眼鏡を使ってね。川にいる大うなぎも、食べたね。日本にいた時は、ウナギなんて食べたことなかったからね。島民は神聖なものとして、食べないんだけど。
 そうそう、島民は鮫も神聖視して食べないんだよ。鋏の大きな海老も食べたねえ。生のまま食べると、おいしかったよ」 斉藤勝。
 山岡夫妻によると、

「確かに大うなぎはいます。しかし、島の人々は食べています。うなぎを神聖なものとして、食べないのはポナペ島です。
 多分、日本軍はここもポナペと同じだと考えていたのでしょう。現在も犬を食べる習慣はあります。公には食べませんが、もともとやはりポナペ島の習慣で、戦後入ってきたのかも知れません。肉のことをコスラエ語で『コショ』と呼ぶのですが、これは犬と言う意味もあるのですから」

 なるほど島には犬があふれている、全てが放し飼いでえさは全て拾い喰いである。彼等は常に飢餓にさらされ時には人に噛み付き、油断禁物であった。

この島は、海も山も食物が豊富である。民家を取り巻く林にはココナッツをはじめたわわに食物が実り、海岸の道路には蟹が溢れていた。

山岡夫妻や三條助教授によると、到底食糧不足は考えにくいと言う。多くの兵士の死亡には、他に理由があったのかも知れない。この謎を解く一人のご婦人に、お会いする事ができた。

98日の謎

「もう日本語は、忘れました。当時私の父は、マーレムの村長をしておりマーレムに住んでおりました。エセンには当時農場があり、その奥に山があってそこがエセン山です。私たち島民は、強制的に隔離されました。ウツエの人々はワレンに、レラの人々はトフォールに、私たちマーレムの人々はタフンサックに近いエンコイアのあたりにまとめられました。そこには、500名位いました。
 マーレムに戻ってきたのは、45年の98日です。当時は道がなく、カヌーで戻ってきました」と話すのは、ウツワに程近いイスパンパシャの集落に住む、アリス・オーガスタさん72歳である。彼女は、60年前の出来事を時々涙声になって話してくれた。

コスラヤ州では、独立記念日が98日とされている。これは、住民が日本軍の隔離政策から解放された昭和20年の98日を指す。実は、この日にまつわるこんな話が残っています。山岡夫妻によると、

「日本軍が、表向きはカヌー競争と称して住民を集め集団虐殺を計画したと言うのです。しかし部隊内で意見が合わず、結局実行されずに終わったらしいのです。その日にまつわるのが、九月八日というものです」

 アリス・オーガスタさんの話を続ける、
「兵隊たちは、マーレムにも大勢いました。コプラ・キューカンバー・コナッツなどを食べていましたがとても足りないようでした。ハイキュウ(配給)があるのですが、下の兵隊には行き渡らないのです。高官だけが食べて彼等は、太っていました。戦争が終わった後も、歩く事も出来ない兵隊が数多くいました。 そして、亡くなると私の家の裏にある湿地帯のとろで毎日焼いたのです」

 食糧不足は、真実であった。戦後遺体から島民たちは歯を抜き取り、コレクションにしたという。そして、話は島民虐殺事件へと進んだ。

「マーレムの部隊に、サイトウさんとコガさんという兵隊がおりました。実は島にはアメリカ人のキリスト教宣教師がおり、日本軍の捕虜となっていました。彼等は屋根もない檻のような所に入れられていたのですが、アメリカの空襲が続きました。
 しかし、アメリカの飛行機はどういうわけかその場所を攻撃しないのです。それは、星条旗を隠し持っていた宣教師のひとりが、空襲の時に広げてアメリカの操縦士に見せていたのです。それを知った日本軍は、宣教師と村長だった私の父を殺害する事にしました。 
 その計画を知ったコガさんが、私たちに泣きながら密告してくれたのです。そして、その僅か二日後アメリカ軍がこの島にやって来ました。計画は、実行されずに済んだのです。この話がカヌー競争島民虐殺計画と結びついて、伝説のようになったと思います」    

現地語の通訳は、山岡さんの仕事仲間バーニーさんがしてくれた。すると、そこにバーニーさんの友人が現れた。
「こんな話が、ありますよ。もう亡くなったんですが、ウトゥエにトムティルフェスさんというおじいさんがいたのです。
 そのおじいさんは、手の指が一本かけていたんです。こう言っていました。ある日、日本軍に魚の運搬をさせられたそうです。運び終わると、魚の数が合わないことに日本兵は気がついたそうです。そのおじいさんが疑われ、有無を言わさず指が切り落とされたそうです」

この島では、日本語が話せることを明かさない老人も多いと言う。その理由も、少しわかって来た話であった。

   氷川丸

昭和19531日、潜水艦ロ41による最後の補給があった。
「潜水艦は、水中から食料でも手紙でもゴムの袋に入れてね、浮かせるんだよ。この時にね、手紙が家族から届いたんですよ。でも返事を書くことは、許されなかったんです」 結局家族には、行く先不明のままであった。

竹内正義は当時の北海道滝ノ上村に、そして斉藤勝は生田原町に実家があった。二人は関東軍第四独立守備隊に所属するのであるが、竹内正義の場合は、

「当時、札幌のある八百屋の手伝いをしていました。どうせ召集されるのであればと思い、昭和14年に志願して軍隊に入ったんです。すぐに大阪に移動し、満州に渡ったんです」

すでに触れたように、良洋丸と日蘭丸に乗った南洋第2支隊は釜山を出港した。
「私は、良洋丸に乗りました。すぐに潜水艦の攻撃を受けて、慌てましたよ。甲板に部隊の機関銃を備えて、敵機に備えていました。そうそう、戦艦武蔵が我々を追い越して行ったのを見ましたよ」竹内正義。

「クサイエはね、台風も来ないし日陰に入れば涼しいし、いいところなんだけど、病気は大変だった。デング熱は比較的早く治るけど、アメーバ赤痢には苦労したよ。戦争が終わってわしらは2012月に氷川丸で帰るんだけど、病人たちは先に病院船で帰ったんだ。死者は多かったよ」 斎藤勝。

「終戦の時はアメリカ軍がビラをまいたけど、見ちゃいかんということで、私は読んでないのです。機関銃などの武器も、船で沖合に運び出して海に捨てたんですよ。一二月になって氷川丸で帰国したんです

翌日の13日、私たちは島の南西部にあるワラン地区を訪問した。現在も道がなく交通手段は船だけで、満ち潮の時間だけに訪問できる。美しいサンゴ礁の砂浜と、素朴な村の風景は美しい。電気さえ数少ない人々の暮らしも、時間が止まっているように質素で素朴だ。マングローブの生い茂った入り江に入ると、豊かな自然が息吹いている。

私は、帰りの満ち潮を待つ間砂浜に寝そべり、瞳を閉じた。60年前の出来事が、頭の中でぐるぐる廻った。


  
                             〈マングローブの森が広がる美しいワラン地区〉

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