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    メレヨン島の悲劇
                            ウォレアイ島


  
ミクロネシア連邦                       
 
             〈証言をいただいた池下さん〉
 

「取り残された島」 の中でもっとも悲惨な状況になったのが、メレヨン島とウェーキ島といわれている。このメレヨン島も、ミクロネシア連邦に属している。

現在は「ウォレアイ島」という名が一般的であるが、この島の名を知っている人は数少ないであろう。東カロリン諸島に属する、やはり小さな珊瑚礁の島でパラオ諸島とマリアナ諸島の間に位置する。しかし、グアム島にも、パラオ諸島・トラック島にも500キロ以上離れたまったくの孤島である。

このメレヨン島は戦略的には意味はなく、華々しい戦闘もなかった。
 この島の名が有名になったのは、終戦直後9月復員船の第1号「高砂丸」で帰国した生還者が明らかにした地獄の実態からであった。

送られた6400名の兵士のうち、生還者は1624人。他は、ほとんどが餓死したのであった。米軍が上陸しなかったので、戦闘は起こらなかった。空襲はあったが、それで死亡したのも100人くらいのものだった。

陸海軍ともに、3200名ずつの兵員が送られた。陸軍は独立混成第50旅団、海軍は第44警備隊で、計6400名である。このうち陸軍は死者2419名、海軍は死者2381名の合計4800名という驚くべき死者を出している。死亡率は実に75パーセントであった。

「ばたばた、死んでいきましたよ。同じ部隊の仲間が死んでも、すぐには報告しませんでしたよ。私らは、配給される死んだ兵隊の分の食料を当てにしていたんですから」

そう語るのは北海道帯広市にお住まいの、池下四郎さんである。大正11年生まれの彼は、

「旭川で3ヵ月教育を受けたあとね、満州に送られたんですわ。なんて言うところだっただろうね。そして列車に乗せられてね、朝鮮のどこかの港から船に乗せられたよ。 
 台湾・サイパン・グアムを寄って、そうそう
40日間かがったんだよ。もちろん、どこに行くかなんて私たち兵隊なんか知らされてないよ。

 メレヨンと言ってもね、本島のほかにたくさん小さな島があってね。私らは、名前もないような小さな島に送られたんですよ。その島は、真っ平ですよ。歩いて30分もすれば島の端っこですよ。飛行場もないしね」

部隊は半年分の食料を持って上陸したが、米軍の空襲でその大半を焼失してしまった。

「上陸して、3日目には空襲を受けたよ」

これが、飢餓地獄の始まりだった。制空権のない日本は補給のしようがない。この島に限らず南方の島々には、「現地自活せよ」の命令が出された。早く言えば勝手に生きて行け、ということである。畑を耕し芋やカボチャを作り、海で魚を採って食ってゆけ、内地をあてにするなと派遣部隊を切り捨てたのである。

こうしてメレヨンの兵に待っているのは、「餓死」でしかなかった。大本営も、全くの見殺しにしたわけではなかった。潜水艦で、細々補給をしたこともあった。

しかし、潜水艦1隻で運べる物資の量はたかがしれている。1日分の食糧にも、足りなかったであろう。潜水艦の乗組員は現地の状況を見て、衝撃を受けた。

せっかく苦労して運んだ米袋を、荷役する兵がいない。栄養失調のふらふらで、コメ袋を担げないのである。


    

 

木の葉を、食べましたよ。お正月が、1回あったね(昭和20年と思われる) 。特別支給があったんだけど、乾パンが7つと金平糖が3個か4個だけだったんだよ。ほとんど、毎日重湯のようなものばかりだったんだ。
 トカゲやネズミも、食べたね。棒でたたき殺してね、火で焼いて食べたね。そりゃあ、皮をむいて食べたよ。いくらなんでも毛の部分はね、食べられないからね。
 大きさね。日本のものと同じだよ。黒いねずみだよ。台風も来ないし、井戸を掘ると水はあるんですよ。畑を、作りましたね。かぼちゃを作っていたんだけど、夜に盗まれるんだよね。銃を持った不寝番が、立つんだよ。見つけ次第射殺してよいということになったんだけど、相手は同じ兵隊だからね。撃ち殺された兵隊が、幾人もいたよ。
 私が不寝番にたった時にも、盗みにきた兵隊がいたよ。よぼよぼの兵隊が、一人で来たよ。同じ兵隊だからね。撃ち殺す気にはなれず、通報して捕まえられたんだ。その兵隊はやしの木に一週間も縛り付けられてね、見せしめだよね。そのまま死んだよ」

盗難に対する私刑、つまり軍法会議によらない処刑が行われていたことは事実だった。絶食や吊るし首・絞り殺しも行われていた。

メレヨン島の悲劇は、食糧不足だけでなかった。軍隊だから当然としても、将校が絶対的な権限を持ち、下士官兵に平等な食糧を与えなかった。メレヨンでは、将校の生還率は67パーセントで兵士の18パーセントに比べてはるかに高い。将校は、三分の二以上が生還しているわけだ。結果的に、乏しい食料を将校が独占したことになる。

自活のため僅かに開墾した畑は部隊ごとに管理され、作物を盗む者は射殺してよかった。従って飢えに耐えかねた兵は、殺されるのを覚悟で盗んだ。

「食料庫に侵入して、銃殺になった兵隊の話も聞きましたよ。自殺した兵隊も、いましたよ。海のものは、ほとんど食べなかったね。魚を獲る道具がないんだよね。はじめは手りゅう弾を投げ込んで魚を取ったりしたけど、すぐにそれも禁じられてね。
 そうそう島民はいたよ。男や若い女はいなかったね。老人や子供が多かったな。
島民には絶対に危害を加えてはいかん、という命令が出されていたね。だから、島民からも物を盗ることはなかったですよ。小さな島だから、バナナもないんだよ」

栄養失調で、歩けない兵は四つんばいになって這った。

「何もしなかったし、何もできなくなったね。じっとしていただけで、終戦を迎えても何にも思わなかったね。ただ奴隷のようにどっかに連れて行かれると、思っていたね」

あと一ヶ月終戦が遅れていればメレヨン守備隊7千名全員が餓死し、真相は闇に隠されたであろう。

高砂丸は特設病院船となり、復員船第1号として終戦40日後の926日別府へ入港した。戦前、台湾航路に就航していた高砂丸である。

「別府温泉で一週間ほど、療養しましたよ。私はね、比較的元気だったんですよ」池下四郎

飢えた兵に、すぐに通常食を与えてはいけない。胃と腸が収縮しているので、普通の食事は吸収できないのだ。はじめは薄い重湯を与え、徐々に濃さを増していく。だが兵は「もっとくれ」という。
「それ以上食えば、死ぬぞっ!」しかし
「死んでもいい。腹いっぱい食いたい」

飢えた兵は、食糧庫から盗んだ乾パンを貪り食う。翌日、猛烈な下痢に苦しみ死亡することもある。飢餓地獄を体験すると、人は文字通り腹が裂けるまで食べるという。

裁判に寄らない処刑が行われた島メレヨンは、「最後まで軍紀厳正であった」として、戦後天皇にも賞賛されている。
 階級の高い将校が食料を独占し、階級の低いものほど餓死者をだした。将校たちは自分の食糧確保のためにも、軍紀をより厳正にしたに違いない。ここでも、兵士たちが真っ先に犠牲となって行った。降伏を認めない日本軍の非人間性が、もっとも強く現れた島のひとつがこの「メレヨン」 と言えるだろう。


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