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  見捨てられた島クサイエ
                               コスラエ島


  
ミクロネシア連邦                       
 
 
                          〈現在のコスラエ島は食料が豊富だ〉

 
 
      〈日曜日の午前中は協会に行くことが基本だ〉

 
      〈教会からレロ島を見る。陸続きになっている〉
 
        
       〈海岸に打ち捨てられた日本軍戦車〉
  
 
         

 
         〈日本軍が自ら破壊した通信所〉
  
 
             〈「友好の碑」〉

      
      〈ウトゥエ村の村長さんから手がかりを


 
        〈ベンジャミンさんから話を聞く〉

 
           〈島の南部に続く道

 
         〈元気な島の子供たち〉

 
    コスラエの生活

こうして、狭い島クサイエに約5千名の将兵がひしめいた。住民は住処を追われ、数多く造られた隔離施設に入れられていく。

住民の多くは、敬虔なキリスト教徒である。アメリカのあるキリスト教会が熱心に布教し、現在も生活に根付いている。

私の滞在した200512日は日曜日にあたり、屋外での活動は戒められ、特に午前中は教会での礼拝が奨励されていた。私たちも、三條助教授に連れられレロ村にある教会を訪問した。300名ほどの村人が集まってきたが、印象深かったのは地区ごとに聖歌隊をつくり、競うように歌う島民たちのコーラスであった。

その力強い歌声は、今の日本にはお目にかかれない素朴さがあった。ふと人々の座るベンチを見ると、ローマ字でイチクミ・ニクミなどと書かれてある。明らかに一組・二組である。日本の統治時代のなごりである。山岡さん夫妻によると、

「日本語を元にしたものが、そのまま数多く島の言葉になっています。イチ・ニ・サンはもちろん、ケンサ・テンジョウ・ウンドウカイ・ガンバレ・アカチン・デンキ・トウバン・カリント・スイカ・ヨウイドン・イットウ・ニトウ・サントウなどたくさんありますよ」

日本語的な名前も多く、苗字としてマサオ・ケンジ・ノダ・ナカムラそして、下の名前としてミシマ・マエダ・アキコ・マサコ・キエコなどが多いという。そして老人の多くが、現在も日本語を理解する。

   空  襲

 佐藤豊春の話に戻ろう。
「飛行場を作っていましたが、やはり陣地構築も始まりました。エセン山の麓に陣地を作って、山をくり抜いたトンネルを3本つくりましたよ。敵が上陸してきたら、直ぐに移動するためのものですよ。毎日のように空襲を受けましたし、われわれの貧弱な武器ではとても勝てないと思っていました」  

昭和1913日の初空襲以来、空襲は連日続いた。のべ421回の空襲を、受けることになる。
「私たちの第3大隊は山の中だったので、空襲の被害は少なかったんです。B24はエンジンが4つ、B26はエンジン二つです。ギルバート諸島のタラワ・マキンから飛んできたんですね」

建設中の飛行場が、最大の爆撃目標となった。すでに、日本軍には飛行場建設を続ける力は無く、昭和192月に建設工事は中止された。

ちょうどそのころ、アメリカ軍はマーシャル諸島に上陸作戦を開始した。昭和1923日ルオット環礁、5日にクェゼリン環礁・29日エニウェトク環礁と次々に玉砕していく。正に「玉砕列島」が形成されていった。

クサイエ(コスラエ)島は、この玉砕から免れた。アメリカ軍は、この島の占領計画を変更した。理由は、クサイエには飛行場がないことと、山がちな地形は占領するにはやっかいというものである。

また昭和19217日(450機)と18日(100機)の大空襲で、日本軍の中部太平洋の拠点トラック島は既に壊滅していた。アメリカは、やっかいなそして意味のないクサイエ・ポナペ・トラックの島を避ける「蛙とび作戦」に切り替えていたわけである。その結果制海権と制空権を失ったこの島への補給は、完全に停止した。輸送船のエボン丸、第二春山丸、第九東洋丸が次々に撃沈されていった。

昭和194月まで連日だったアメリカ軍の空襲も、5月からは1日おきになり、7月にサイパン島が占領されてからは殆どなくなっていく。島は、日本軍にもアメリカ軍にも見捨てられてしまったのである。

私たちは、山岡さんのトラックの荷台に乗り、島の南部にむかった。島の中部に流れるマーレム川を挟んで、北側を歩兵第107連隊、南側を南洋第2支隊が担当していたわけで、その境界線の河口付近に慰霊碑がある。

そこに向かう途中で山岡さんの奥さんが、
「そういえば、このあたりに日本のタンクがあるはずだわ」
 タンクとは、「戦車」である。海岸の道路わきに、日本軍の九五式戦車のようなものが放置されていた。恐らく終戦を迎え、処分に困った末にここに放置したのであろう。

60年を経てもキャタビラ内部のゴムには弾力があり、確り原型を保つ姿に驚かされた。更に暫く行くと、海岸沿いに傾き破壊されたコンクリートの建物がある。案内板には「ラジオコミュニケーション」とかかれており、日本軍の通信施設であろう。地元民によると、日本軍は自らの手で破壊したという。

そして、マーレム川にたどり着いた。現地では「マレム」と発音するが、本当に小さな川である。そして「友好の碑」と書かれた慰霊碑がある。なぜ、アメリカ軍が上陸しなかったこの島で死者が続出したのであろうか。
   飢 餓

米軍の空襲が一段落すると同時に、飢餓との戦いが始まった。僅か10キロ四方の孤島に、兵士と島民の合計7500名がひしめいていた。
「水がいいので、野菜を作ることは出来ました」佐藤豊春

なるほど、他のサンゴ礁の孤島とは違いクサイエ島には、山がありジャングルがある。雨も、世界有数の降雨量を誇っている。つまり、水だけには恵まれていたと言えるだろう。以前は、他の島に食糧を供給することも出来た島である。

昭和一195月の潜水艦ロ四一による補給が、実質的に最後のものであった。
「昭和20年になって、食糧が足りなくなってきました。サツマイモを作りました。南国なので、3か月で出来るんです。茎を畑の土に差し込んだだけで、採れるんです」

しかし、甘藷(サツマイモ)の栽培は焼け石に水であった。この芋の葉の入った雑炊が、主食となった。
「トカゲやネズミを、食べましたね。焼いて食べましたが、生のまま食べている人も居ましたよ。ネズミも手で捕まえましたよ。猫より早いんです。スズメのような味で、臭いはありましたよ。トカゲはね緑色のやつがいて、これも串にさして焼いて食べるんだけど、割とうまかったよ。1メートルもあるオオトカゲも、食べたことがあったね。山にいたサワガニも食べたし、海にいたシオマネキと名づけた蟹も食べたね」

サワガニは、黒い絨毛に覆われた不気味なものであった。兵士たちは、満腹感を求めて口に入るものは何でも雑食した。やがて消化吸収力が衰えて、後に栄養をとっても手遅れになっていった。

「川魚は、あっという間に食べ尽くされましたね。島民は信仰のために食べないのですが大うなぎがいて、食べましたよ」
 島民の心情を考慮して、島民の前で公然と捕食しないようにと、命令も出されたという。島の犬・猫・ネズミ・海のうつぼも食べ尽くされた。

「泥棒も、いましたよ」無論、兵隊の泥棒である。
「見つかると、絶食などの懲罰がありましたね。栄養失調は、怖いですよ。体にむくみがでてきたら、たいていダメだねえ。目の前の兵隊が突然、コロンと死んでしまうですよ」

 栄養失調は、体の抵抗力を奪い、デング熱・アメーバ赤痢・ワイル氏病が兵士を襲った。マラリア蚊が居なかった事も、幸運であった。
「しかし、私の部隊は結局103名のうち40名ほど(名簿では35名)亡くなったんです」当時25歳の佐藤豊春は分隊長で、6名の部下がいた。

7月の下旬に、足に怪我をして動けなくなり療養所に入ったんですよ。貧血にも、なったんだろうね。ウツワの、療養所です」
一軒の小屋に20名程度の兵士が収容され、その小屋が五軒ほどあったと言う。
「療養所といっても、作業が無いだけで食糧は同じですよ。配給の食糧だけじゃあ必ず死んでしまうから、自分で魚を獲ったりして食べつないでいくわけですよ。だから、自分が動けなくなったらそれで終わりですよ。配給は、海水でいもの葉を煮たものばかりでね。葉っぱばかり食べるから、便も牛のように緑色になるんですよ。そこで、戦友を亡くしたんです。
 斜里出身の、鎌口という兵隊です。私が療養所の小屋に行ってみると、俺はもうだめだと言うんです。痩せこけてねえ、暑いのに毛布に包まってガタガタ震えていたんだよね。白い米のメシを腹いっぱい食べてから死にたいと、言ってましたよ。死が近づくとねえ、普段しゃべらないやつも、よくしゃべるんですよ」

 遺体はそっと片付けられ、煙が出ても大丈夫な夜間に火葬にされていった。

私たちは、佐藤豊春さんのいたウツエの療養所を探したが、なかなか探し当てられない。しかしウツウ(現地ではウトゥエ)の村で、日本語を話す老人と会うことができた。

現在のウトゥエ町長の父親ベンジャミンさん88歳である。笑顔いっぱいのリーモス・ベンジャミンさんは、
「しばらく、日本語を話してないからねえ」と、見事な日本語を話す。
「このあたりいっぱいいっぱい、兵隊いたよ」彼は多くを語らなかったが、最後まで素敵な笑顔で接してくれた。

私が島を離れたあとも現地で調査を続けていた三條助教授によると、現在のウトウェ村の村長ベンジャミン氏から、次のような話を聞いている。
「現在のウトウェは旧日本軍の宿営地ではあったが、日本軍が入港した港はもっと南にあり、軍本部と病院もその付近にあった。当時の村民はそこから更に西寄りに住み、日本軍が去った後に現在のウトウェ村に入った」という。

ワラジの軍隊

「そこで、終戦を知ったんです。正直、ほっとしました。しかし、アメリカに連れて行かれて奴隷にされると思っていましたよ」

816日には、自主的な武装解除が行われ、一週間ほどたってアメリカ軍が療養所にもやってきた。痩せこけた病人たちを前に、米兵はうろたえた。
「写真を、随分撮られましたよ。 こっちは、骨と皮ばかりだからね。着ているものも、ボロボロだしね。2年間軍服も長袖のもとと半そでのものの、2着しかなかったんだからね。靴なんて、履いてないよ。木の皮の作ったワラジを、履いていたんだから」佐藤豊春
 アメリカ軍は、彼らに乾燥卵・ビスケット・コーヒーの救援物資を与えた。
「ビスケットをおかゆにして、食べたねえ」帰国には、有名な氷川丸がやってきた


             
                      〈中央に病死した鎌田さん。右端に佐藤豊春さん〉

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