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        悪魔の飽食「731部隊」Ⅰ                                     

                         
  
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         〈本部の建物〉

 

 
 〈馬鹿馬鹿しいことにこの日も私たちの団体には
          黒龍江省公安庁の監視がついた〉


 
   〈マルタが収容されていた「四方楼」の跡地〉

 


        
          〈石井四郎〉

 
    〈シンボルになっているボイラー棟〉

 

 

 2004年の私たち訪中団が、有名な七三一部隊の施設を訪問したのは、8月12日の午後である。ハルビンの中心街から約20キロ南に、平房という地名がある。前回訪問した2年前と比べると、更に道が整備されバスはスイスイと進む。

七三一部隊とは、昭和8(1933)年に日本陸軍がここに設立した細菌戦研究のための特殊部隊の名である。正式名称は関東軍防疫給水部本部、つまり戦場で兵士たちに害のない水を供給するための研究所というのが表向きの看板で、実際は細菌兵器などの研究をしていたわけである。

石井四郎軍医中将を中心に、さまざまな生体実験も行なわれた。実験で殺された捕虜(「丸太」)は約3000人といわれ、部隊には飛行場や鉄道引込み線まである。『侵華日軍第七三一部隊罪証陳列館』というのが、現在の正式名称である。

部隊の本部棟 は、修理はされているが、原型は当時のままである。近年まで、地元の小学校として使われていたが、現在は世界遺産に登録するために整備の最中である。

当時日本は、安価で効果の高い兵器の開発を急いでいた。1925年、「生物化学兵器禁止ジュネーブ議定書」に日本は調印する一方で、部隊長となる石井四郎は、同時に細菌兵器の開発に着眼した。石井四郎は、32年に陸軍軍医学校に防疫研究室を設立した。表向きの看板は「防疫」であるが、実際は細菌兵器の開発・研究が行われた。

 1932年ハルビン市郊外の背陰河に731部隊の前身「東郷部隊」を設置し、日本国内では行なうことのできない生体実験がはじまった。しかし、捕虜の脱走により一時は施設の閉鎖をやむなくされた。そして1938年、ここ平房区を特別軍事区とし、6キロ平方メートルにわたる施設を建設した。ここが現在の施設である。
 更に特別軍事区とされ、上空の日本軍機の飛行さえ禁じられていった。現在の本部館内の展示物は、人体実験・生体実験(生きてまま人間を解剖した)や、ペスト・コレラ・チフス・炭素菌などの細菌兵器研究の展示が中心である。   

『悪魔の部隊731』の中枢部分である。本部建物の前には、団体客が集合している。現地の大学生らしい。近年中国は、『愛国主義教育』と題した教育に力をいれている。ここは、代表的な『愛国主義教育基地』と指定されているわけだ。健全な愛国心になることを、望んでやまない。

ここでも、私達は中国公安(警察)当局の監視のもとに置かれた。バスの後ろを、公安のパトカーがついて来る。平頂山事件の記念館では許された犠牲になった中国人に対する慰霊も、ここでは許可されなかった。私たちは、いつのまにか軍国主義的団体とされてしまっていた。

まったく逆の団体であることを、中国人添乗員に説明する。彼女は一定の理解を示してくれ、監視役の公安員に訴えてくれたが、『上からの命令なので』というのが、彼らのその答えであった。

部隊本部建物の裏には、人体実験の材料にされた『マルタ』が監禁されていた『四方楼』の跡地がある。建物は59年前の8月13日に、証拠隠滅のために日本軍によって爆破された。同時に、収容されていた『マルタ』の人びとも、証拠隠滅のために毒ガスなどで殺されてしまったわけだ。

現在この跡地は、完全に破壊され僅かに痕跡を残すだけである。その東側には、この施設のシンボルと言える半分崩れ落ちた大きな煙突のある建物がある。ここが、悪魔のボイラー室である。細菌や実験用小動物を繁殖・維持するために、巨大でかつ高性能の集中暖房設備を備えていた。 
 45年8月13日の爆破作業で、この施設の半分が破壊されずに残った。あまりにも頑丈に作ったから。そのそばに、鉄道の線路が残っている。昭和20年8月11日から、この部隊関係者はこの線路に専用列車を入れ、

『ソ連軍に、この部隊の存在が知れたら全員死刑になってしまう』と考え、いち早く逃亡したわけだ。そして豪雨の8月13日には、日本兵とその家族の最後の逃亡列車がここから発車した。一週間かけて朝鮮半島を縦断し、更に航路で混乱の日本に逃げ帰っている。

その煙突の北側には、『凍傷実験室』が残っている。ここでは、『マルタ』を実験材料にして『凍傷』の実験を行っていた。吉村部隊と名づけられたこの部隊は、どれ位の温度で人間の足や手が壊死(えし)するのか、そして治療するにはどんな方法がいいのか、そのための人体実験が繰返されていたのである。当時、腕や足の欠けた人々が数多く収容されていたという。さらに、その近くに実験用小動物の飼育室がふたつある。

ひとつは、ネズミ専用であった。『黄鼠飼育場』の案内板が建っている。黄色い大型のネズミだと思われるが、細菌に汚染されていた数万匹のネズミが、飼育されていた。45年8月13日、処置に困った指揮官は、このネズミを巷に開放した。 その数か月後、このあたりでペストが発生し、多くの地元民が死亡した。

 戦後米軍は、人体実験のデータと引き替えに731部隊の戦争犯罪を問わなかった。そればかりか、幹部たちは高額の退職金までもらい、官公庁・大学・製薬会社、防衛庁などに再就職し活躍した。

地図をみると、現在部隊施設の敷地の大半は住宅地になり、ボイラー煙突や四方楼のすぐそばにも、一般住民が暮らしている。廃品回収業の女性が自転車に、乗り私達の横を過ぎる。彼女は、ペットボトルを叩きながら客を呼ぶ。その声が、あたりに悲しく響いた。

帯広にて

私は、二度目の731部隊訪問を経験して帰国後、『関係者に会ってみたい』という気持ちが強くなった。10年前の1994年、地元の北海道帯広市で平和団体が中心となって、『七三一部隊展』が開催され、大成功している。私はそのつてを頼りに、関係者の1人に会うことが出来た。

沢柳尚夫(さわやなぎひさお)さんは当時一兵士として、ソ連軍参戦によって慌てふためいた731部隊が施設を破壊し、一目散に逃亡列車で帰国するその体験を持つ。『悪魔の部隊731』が崩壊していくその場面に居合わせた、正に貴重な体験をされている。

『もう、60年も経って記憶も薄れて来ているんですよ。しかも当時は満19歳の若者だったから、わけが分からないまま日本に帰ってきてしまったんですよ』僅か19歳の兵士が見たものはそして体験したものは、いったいどんなものであったのだろうか。

北安省鉄嶺にあった満蒙開拓義勇隊(軍)にいた沢柳さんは、一年繰り上げられた徴兵検査によって昭和20年5月に召集され、『防疫給水兵』として牡丹江にあった第122師団414部隊に配属された。典型的な『根こそぎ動員』の一人である。配属先は『防疫給水部』であるから、731部隊に繋がるルートはここで既に出来ていたことになる。

『7月の終わりに列車に乗せられ、着いた先が平房のホームでした』部隊内に作られ、例の列車ホームである。
『半地下の兵舎に入れられて、3~4日は学科の勉強をさせられました。医学的な器具の名前や、水の実験検査の内容でした。
『人体実験の存在は知りませんでした』。

 その後、施設の破壊作業が始まり、その作業に従事させられる。既に、上層部はソ連の参戦を予期していた。数か月前から、撤退の準備が開始されていた。万が一にも、この部隊の存在が連合国側に知れたら、関係者全員が戦争犯罪の対象者となり、特に指揮官は重罪から免れないと考えていたからである。

 8月9日未明からのソ連軍の参戦は、隊員たちには知らされなかった。この日も、731部隊は平常通りの勤務であった。部隊がそして哈爾濱(ハルピン)の町が騒然となったのは、その日の夜になってからであった。

『ソ連軍の飛行機が来て、照明弾を落としたんです』哈爾濱(ハルピン)には、空襲警報すら鳴らず、町は赤々と照らされた。市民と隊員は、呆然と見送るだけであった。そして、防空壕に入って不安な一夜を過ごす。

翌日8月10日、新京の関東軍司令部から『命令受領に出頭せよ』の連絡が入った。しかし、この時石井四郎隊長はすでに姿を消していた。副官が代わりに飛行機で、新京に飛び命令を受けた。めぼしい幹部は、既に逃亡して姿を消していたわけだ。

命令の内容は、『ソ連軍の進度速度は大。関東軍各部隊とも南下し転戦を開始している。731においても、独断専行してよし』というものであった。この『独断専行』とは、要するに一刻も早く転戦せよというもので、転戦とは逃亡退却を意味する。

 命令を受けた副官が731に引き返したのは、8月10日の正午ころであろう。その命令を受けた部隊は、緊迫しそして混乱が始まった。部隊の本格的な撤収・破壊作業が始まったのは、この8月10日の夜からの言われている。とにかく大混乱の中での作業であり、この作業手順などを整理することは不可能である。そして石井隊長が再び部隊に姿を現したのは、この日の夜と言われている。 つづく


  
                        〈吉村部隊の凍傷実験室 2004 8 12〉

 
            
            〈その内部〉   

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