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        悪魔の飽食「731部隊」Ⅱ                                    


                         

  
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       〈動物飼育室のひとつ「黄鼠」の飼育室。処理に困った関係者はここから「ペスト鼠」を開放してしまった〉
                                                
 
   
     〈ここから「逃亡列車」は発車した〉

 
        
〈本部棟内部の展示〉
 

 

 
         〈生体解剖の展示〉
 
 
         〈人体実験の展示〉

 


 

  
       〈ロシア系の母子だろう〉

夜、隊員の処置などを巡って激論が交わされた。石井隊長と菊池少将(第1部長)の間で、鋭い意見の対立があった。石井の主張は、『証拠隠滅のために、隊員とその家族全員の自決』そして『僅かな本隊で、通化に移動する』と言う内容である。

足手まといになる者は、さっさと自決させ自分たちだけが生き延びるという、石井らしい提案である。この石井の案に、菊池少将などの幹部たちは、猛然と反発した。これまでの放恣な石井の生活ぶりへの不満も、爆発した。

結果的に石井が折れ、隊員とその家族の命は救われた。そして、再び石井は姿を消す。専用機を乗り回し、日本への帰国工作に奔走する。無論最優先したのは、石井個人の保身であろう。

 再び沢柳さんの話に戻ろう。
『これから重要な任務につくから、親子どもにも一切これからの事をしゃべるなと言われました。部隊の建物に入ったら、いきなり四人一組の兵隊が担架で死体を運んできたわけです。すっぱだかですよ。殆ど中国人だと思います。死体なんて見たことがなかったですから、ビックリして壁にへばりついて震えました』。処分されたマルタの人々であろう。

ソ連軍の参戦に備えて、マルタの処分は既に終わろうとしていたといわれている。当時まだ残っていた約40人の彼等は、毒ガスと銃で処分されたと言われている。8月11日の午後のことである。それらの死体は、急いで焼却された。

『あの特設監獄の中庭に穴を掘って、死体に薪をどんどん入れて油をかけて焼いていました』そして、沢柳さん自身は主に特設監獄、つまりロ号棟(四方楼)の破壊に従事させられた。
『爆破する事になったんだけど、扉が特に頑丈に出来ているので、その扉を爆破する前に外すことになったんですよ。入っていった入り口から左側の、鉄でできた扉を担当しました。たがねの槌で穴を開けては、ダイナマイトで爆破して外しましたね。それを2~3日やらされました。
 厚い壁なので、1日に2つか3つしか穴があかなかった。古年兵がビールを持ってきてね。飲め飲めって言うんです。酒の勢いで壊すんですよ。でも私は酒好きでなかったんで、あんまり飲まなかったんです。外すなり全部トラックに積んで、松花江に捨てにいったんです。松花江で、船に積むまでしましたよ』。

この大河に捨てられたものは、これだけではなかった。同時に、生体実験のホルマリン漬けの標本類も、処分された。生首・胴体・手・足等約1000にものぼる標本類の証拠隠滅が図られた。日本軍にとっては、1本たりともソ連軍の手に渡すわけにはいかない代物であった。沢柳さんは、ここで意外なものを目撃していた。

『日本人の死体の写真や標本の集められた部屋が、処分されました。多くの日本人が、この部隊で殉職しているんです』なるほど、危険な細菌兵器の開発作業中に多くの研究者や隊員が、命を失っていることは聞いたことがある。死亡した彼等も、研究材料のひとつとされたのだろう。

そして沢柳さんはこの特設監獄破壊作業の過程で、かのマルタが閉じ込められていた牢獄の内部を目撃することとなる。

『8畳くらいの広さだと思います。中には何もなかったけれど、部屋の隅にはトイレだけはありました。そして見たんです。白い壁なので、目立つんです。我々の読めるのは、・・徹底抗日・・・中華民国独立万歳・・とか、そういう事が相当書いてありました。赤い字で書いてあるから、多分周りの話ではこの頭の毛と自分の血で書いたんではないかとね。殆どの部屋に、書かれてあったと思います』。

がらんとした獄房には、一面に消毒用石炭酸の匂いが立ち込め、その中に大きな文字で、「日本帝国主義打倒 中国共産党万歳」などの文字がかかれてあった。
自分の血を塗った手のひら全体に怨みを込め、看守の目を盗みながら一晩中かけて書きあげたものであろう。これは侵略者に対する、民族の解放と人間の尊厳を訴える声なき叫びであった。

 そして本格的な建物の爆破作業が始まった。
『飛行機から、50キロ爆弾も落としてましたよ』建物の隅々に重油がまかれて、火が付けられた。そしてありったけの爆薬が仕掛けられ、大音響と共に悪魔の居城は次々に崩れ落ちた。

 日本への撤収列車は、8月11日の夜にまず3本が発車した。15日までに合計15本ほどの列車が、使用されたとされている。約2500名の関係者は、一斉に撤収を始めた。
『私が乗ったのは、8月13日だと思うのですがはっきりとは、分かりません。昼間でしたし、雨は降っていませんでした。松花江から帰ってきたら、直ぐに列車に乗れという事になったんです』。

部隊施設、そして軍属関係者の宿舎にも一斉に火が放たれた。燃え盛る火の間を、列車は動き出した。部隊の金庫からは、何十万円もの現金、実験室からはプラチナ等の貴金属が消えた。多くは隊員の胴巻きの中身となり、それらが戦後の彼等の事業資金となった。

 動物舎からは、無数のネズミをはじめとする小動物が野に放たれた。そして、何百何匹のノミが逃げ出した。

撤収列車には、部隊の資材部倉庫に蓄えられた食糧が山と積み込まれた。車両は、旅客車両は一両もなく全てが貨物車両であった。しかし貨車とは言え満載された食糧の上に畳が敷かれ、即席のお座敷列車が誕生している。
『食糧には、不自由しませんでした。何年も舐めたことのなかった砂糖が、たくさんあり舐め放題でしたよ』。

撤収(逃亡)列車の走行は、最優先された。特別機密をもった軍用列車と関東軍は判断し、通過する主要駅では憲兵を派遣して、最優先通過が保障された。これは勿論、石井の工作である。
 列車は、先頭・真中・最後尾にそれぞれ3両の機関車を配備するという特別待遇である。黒い大蛇となった撤収列車は、一目散に南下した。必然的に、多くの関係者は列車の中で終戦を知ることとなる。

『通化のあたりで、終戦を知りましたよ。北朝鮮に入ると現地住民の襲撃を受けましたが、銃撃して難を逃れたこともありました。着いたのは、釜山です。そこから、1000名位で船に乗せられました。8月の末に、山口県の萩に着きました』。

 隊員たちを積んだ帰還船は、8月18日から25日にかけて、佐世保・博多・舞鶴・敦賀・門司・萩などの港に着いている。
『萩の港では、ものすごい量の家財道具などが山積みになっていました。軍属の家族が持ち帰ったんですね』部隊は、そこで解散となった。同時に、三項目の命令が下された。
 郷里に帰った後も、731部隊に在籍していた事実を秘匿し、軍籍を隠すこと。②今後あらゆる公職に、つかぬこと。③隊員相互の連絡は、厳禁とする。

『一切、連絡を取り合うなという命令を受けました。もちろん、部隊のことを話すこともです。現金で110円と列車の切符を貰いました』。

彼は、郷里の長野県飯田市に戻った。
『飯田の実家に帰ったのは、9月2日でしたよ。腰に銃剣をつけたままだったので、それを見た父親が慌てふためいていました』
 沢柳尚さんが、長野県竜江村(現飯田市)で生まれたのは大正15年である。昭和とともに育ち、昭和18年に満蒙開拓義勇隊に志願している。
『8人兄弟で、私は六男です。農業をやっているとはいえ、土地は1町足らずの狭さで、兄弟も多いのですから、口減らしのために義勇隊に入ったようなものです。村からは、大勢満州の開拓団にいきましたよ。特別、満州に行きたかったわけではありません。
 名古屋の軍需工場で働く徴用令が、来たんですよ。そんなところで働く気にはなれず、小学校の先生の勧めもあって義勇隊に入ったんです』。

 内原の訓練所・南津軽の黒石を経て新潟から、大陸に渡ったのは昭和18年の秋であった。羅新に上陸し、鉄嶺の訓練所に入る。

『3年間ここで訓練したあと、開拓地に入るんですよ。鉄嶺には一隊130名の義勇隊が19ありましたから、かなりの人数の少年がいました。私は、18歳と言う年齢で周りよりも二つばかり年が上だったので、精神的にも肉体的にも、周りほど苦労しなかったんですよ。
 でもね、いい想い出は何もありません。私はね、兵隊になって敵兵の姿を一度も見ずに帰国したんですよ』これは、確かに幸運であったことだろう。

しかし昭和と共に育った彼は、時代に翻弄された青春時代を送ったことになる。わけが分からないうちに満州に渡り、そして帰国した。彼は、国家の犯罪をその目で見て帰国したことは確かである。

 そして昭和20年初冬、現地の平房村全域を、猛烈なペストが襲った。或る村では、400戸が全滅した。731部隊の施設から逃げ出したネズミとノミによるペストの流行であった。

 
    
   〈実験に使用した遺体は、証拠隠滅のために焼却された〉           〈逃亡は不可能であった〉

               
      〈石井四郎本人が開発した「細菌爆弾」〉〉          〈ウイグル族の方と福家君千葉君 ハルビン駅前〉

  
              〈松花江 ハルビン市街地から中州の「太陽島」を見る。市民の憩いの場になっている〉

  
                     〈美しいハルビンの繁華街キタイスカヤ〉


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