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         方正県と野崎勝さん                                     
                        
南靠山屯(みなみこくさんとん)開拓団


  
中華人民共和国黒竜江省                                                                                
  
            
            〈方正の伊漢通開拓団にある松花江の船着場。ここで野崎勝さんは船を待った。2004 10 23)
                                     
 
    
              〈野崎勝さん〉

 
      (昭和19年の南靠山屯開拓団の小学校

 

 
            (現在の方正中心街〉

 
   
〈伊漢通開拓団の建物は現在も使用されている〉

 
     (民家ではブタも飼われている〉


 
  〈千葉君と運転手の馬さん 伊漢通の船着場で〉

 

        〈地元の人を交えて〉

 
       〈松花江は大河である。〉

 

  
  〈林口で昼食を取る千葉君。2004 10 22〉

  

     〈バスの中でであった中学一年生〉


 現在北海道帯広市に在住の野崎勝さんも、南靠山屯開拓団のひとりである。終戦当時僅か10歳だった勝
(まさる)少年が、この方正の地から日本に帰国したのは昭和30年の春である。なぜ10年もの長期間、この方正の地に残らざるを得なかったのであろうか。

勝さんの父野崎福太郎は、北海道紋別郡遠軽町で農業を営んでいたが、昭和11年頃に樺太に渡っている。タランナイ地区で、薄荷づくりなどにたずさわっていたが、
『まだ子供だった私にはよく分かりませんが、昭和15年か16年ころに、満州に行く事になったんですね。母親ツルの実家に寄ったりしながら、大阪をよったことは覚えています。動物園にも、行きましたから』。

こうして、樺太から南靠山屯開拓団に入った人々は、本部にあたる瑞穂部落に入植した。広々とした原野が、広がっていた。
 南靠山屯開拓団は、他の多くの開拓団とは異なり、比較的実質的な開墾農業を強いられている。多くの開拓団が、中国人から土地を取り上げたのとは異なっているようだ。
『原野を開拓して、水田を作っていました。雑草だけが腐って、米だけが育つようになっていました。土地は肥えていたと思いますよ』。

 終戦を迎えるのは、満10歳小学校4年生の時であった。先に触れた羽賀忠雄家の人々と同じ逃避行を辿ることとなる。
『山の中に、日本人の赤ん坊が置き去りにされていました。2・3人見ました。1人の赤ん坊は、泣いていました』。やはり、子供が捨てられている状況を目撃している。

野崎家は、子供が6名いる。勝の上に兄が2人と下に弟が1人。姉が1人に妹が1人である。
『私と、弟の(現在釧路市在住)だけは、裸馬に乗せられていたんですが、片足がなくて不自由なおばあさんがいて、父が中で変わってやれと言ったんです。その後は、私も歩きました。食べ物がなくなると、畑に入って生のとうきびをかじりましたよ。
 まだつぶが小さくてね、汁を飲んだんです。乗ってきた馬も、殺して食べたんです。可哀相なことをしました』。

 ソ連機が飛んでくると、慌てて火を消して避難もしている。体力がない幼児が捨てられたり処分された後は、老人たちが脱落していった。勝も、目撃している。
『工藤団長の両親は途中でもう歩けないとなって、その場に残されたようです。北靠山開拓団の人たちも一緒に居たんですが、
ある足の不自由な方がいたんです。もうこれ以上歩けないとなった時に、その人の弟が銃で撃ち殺してしまいました。ひざまづいたところを、前から撃つのを見ました』。

一行は、羽賀家と同様に、方正地区にたどり着くと日本人が使っていた開拓農家に収容された。羽賀家と同じ、『五班(ウーパン)』の部落である。
『死人が、大勢出ました。 毎日、6・7回くらいずつ葬式をしたと思います。4歳だった妹の幸子(さちこ)も、11月ころに亡くなったんです。前の日まで、元気に遊んでいたのにね。突然次の日には、死んでしまう人が多かったんですよ』。
 その頃はまだ、地面も凍結しておらず、地面を掘って死者は埋葬されていた。野崎家は、その地面の凍結が始まる前に、

伊漢通(いかんつう)の近くにある、白四屯(パイスートン)の部落に移りました』。なぜ、移動したのであろうか。昭和20年の12月ころ、厳冬期を前に姉美佐子が中国人のもとに嫁いだ。その嫁ぎ先が、その集落であった。

『姉は、私達の命を救うために犠牲になったんです。はじめは、私と弟の重吉も姉についていったんです。あとになって、家族全員が姉の嫁いだ杜(トウ)家の世話になったんです』。美佐子さんは、当時僅か16歳であった。こうして、野崎家は杜一族の援助によって、生き延びていく。多くの日本人女性が、生きていくために中国人のもとに嫁いだ。

『馬橇に乗せられて、中国人に攫われた日本人女性もいましたよ。必ずしも、その後不幸になったわけではないようで、攫われたとしても、幸せになった人も多いんです』。

話は前後するが、野崎家も近くの伊漢通の港で船を待つ経験をしている。大河松花江を遡れば、哈爾濱(ハルピン)にたどり着く。
 多くの避難民が、伊漢通の波止場を埋めた。
『父親は、弱い人を先に行かせてやれ。うちはまだみんな元気だといって、他の人を先に船に乗せたんです』。こうして、野崎家は生き延びた。年が明けた昭和21年の夏から、日本人の帰国が始まった。しかし、野崎家は方正に留まる道を選んだ。
『もちろん、家族みんな日本に帰りたかったんです。でも、たとえ哈爾濱(ハルピン)にたどり着いても、多くの日本人が途中で亡くなっていると聞いたんですね。それで、父親は時期はまだ早いと決断したんでしょう』

 同じ年、中国共産党が方正に入ってきた。そして、社会主義の土地改革も始まった。
『裕福だった杜家の財産も、没収されたんです。しかし、逆に私達日本人にも中国人と同様、均等に土地が分け与えられたんですよ』。こうして、比較的不自由しない生活を保つことが出来た。日本人としての、差別などもなかったという。しかし、順調な暮らしは長続きしなかった。昭和24年ころに、母親のツルが病死している。その後、人民公社の組織が始まり、野崎家も人民公社に入っている。

帰国することになったのは、昭和30年3月であった。最後の本格的な帰還が行われたのは前年であったから、
『最後の帰還船だったようです。天津から、興安丸に乗りました。舞鶴に着いたんですが、日本は暖かいと思いました』。帰国にあたって、姉の美佐子は方正に残された。

『その時、3人の子供がいました』。辛い別れが、あったに違いない。全ての残留婦人が経験した、苦悩である。こうして野崎家は、帰国した、一番上の兄朝冶も、応召中にソ連軍に捕らえられ、シベリアに抑留されたが昭和24年に帰国している。

この兄も、家族が帰国する昭和30年までどんな思いであったろうか。戦争は、本当に惨い。その20年後、姉美佐子は昭和50年に一時帰国した後、昭和54年に日本に永住帰国している。その時は、10人の子供のうち7人と中国人の夫が、日本に同行した。
『姉は、今とても幸せなんです。日本での夫の仕事も、とてもうまくいっているんです。それまで随分、苦労してきましたからね』。私は、この言葉に救われるような気がした。

   方正(ほうまさ)(こう) 10月22日

20041022日、大学生の千葉君と私は、麻山・青竜を後にしたのち、次の目的地の方正地区を目指した。林口に行けば、方正方面に向かう乗り合いバスがあるだろうというのが予想であった。お昼前に林口に付き、バスターミナルでタクシーを降りた。方正に直接行くバスは、ないらしい7

『途中の高楞(コウリン) という町で、乗り換えなさい』 と教えてもらった。200キロあまりの距離のバス代は29元(約380円)ほどであるが、一日にわずか3本しかなく、しかも午後の便は一本だけという危うさであった。

 13時50分発のバスは
発車する。名も知れぬ村々を過ぎるが、未舗装道路が多く、中々スピードが上がらない。途中に南靠山屯開拓団の大草さん一家が辿った避難路を、横断することは間違いない。いったいそこは、どんな場所だったのであろうか。密林の山間部なのだろうか?それとも、広大な平原地帯なのだろうか?

2時間ほどで、大河牡丹江を渡り三道通の村に着いた。広々とした平原が続く、壮大な風景が見える。バスは乗り降りを繰り返し、常に満員である。通学する中学生たちが、途中の町から乗ってきた。どうやら中学校一年生らしい。私たちが、外国人であることに気づいた彼らは、興味津々である。

彼らの、教科書が次々に取り出される。英語や数学などだが、目を見張ったのは、カラー印刷になっていることだった。名刺や日本のおもちゃを手渡すと、大騒ぎになった。私たちに、一人ひとりがサインを求める騒動に発展していく。楽しいひと時であったが、目的地にはなかなか着かない。
 ようやく6時30分ころに高楞(コウリン)という知らない町にたどり着いたが、真っ暗闇の中に放り出されてしまった。タクシーを拾ってでも、今日中に方正に行こうと思うが、タクシーなど見当たらない。助けを求めるように、近くの食堂に駆け込んでみたものの、
『この町には、タクシーというものがない』 というのだ。
『世界中に、タクシーのない町などない』 と思っても、ないものはないというわけだ。途方にくれて、
『どうしたら、いいですかね?』 と、尋ねると、
『この町の旅館に泊まって、明日の朝出るバスに乗りなさい』 と言う事になった。

 愕然としたが、どうやら町だけはあるよう
だ。歩きまわっていると町の人々は大変に親切で、どうにか一泊1900円のホテルにもたどり着いた。食事にも、ありつけた。肉の串焼きなどを、腹いっぱい食べてもわずか一人100円程であった。食べると人間の元気は、復活する。

    10月23日

 とにかく朝を迎えると、早速町がどうなっているのか知りたくて散策に出かけてみた。かなりの冷え込みで、いたるところで氷がバリバリに張っている。かなり大きな町らしく、通りも広く町の北側には大河松花江が流れている。ホテルで一人わずか32円ほどの朝食をとると、私たちはすぐに出発した。

確かにバスターミナルがあり、方正行きのバスもある。50キロほどの距離を10元(130円) であるが、なかなかバスは進まない。未舗装の上、途中の停車時間がやたらに長いのだ。運転手が、途中で食事に行ったりで、先を急ぐ私たちはやきもきする。

バスは途中、大梦密(タルミ)の集落に入る。ここは、南靠山屯開拓団の人々が多くの悲惨な体験をした場所である。私が、撮影に夢中になっていると、バスの乗客は不思議そうな表情で眺めている。その町を過ぎると、やっとバスは高速道路に乗り、快適に走り出した。地形も広びろとしたものに変わってくる。

再び未舗装の凸凹道を走ると、忽然と近代的な町並みが見え、これまた忽然と舗装道路に出た。方正である。まずはバスターミナルで、ハルビン行きの切符を買った。ハルビンからは、今夜夜行列車に乗らなければ日本に帰れないわけだから、私たちには余裕がない。最終便午後2時50分発の切符を買って、一安心である。

まずは、この町の郊外にある『日本人公墓』 に行かなければなるまい。タクシーで向かうと、本当にすぐに着いた。周恩来首相が、建てたこの国唯一の日本人の公墓である。二本の慰霊碑が並んでおり、向かって右側のものがこの方正地区のもので、1963年に建てられている。終戦当時ここは「砲台山」 と呼ばれ、日本人の死体が山積みになっていたわけである。それを思うとただただ私は、手を合わせた。しかし、勝手に手を合わせるわけには行かない。

9月初めに訪問した100名規模の長野県の団体が、ここで慰霊を禁じられている。線香を焚くことや、手を合わせることはもちろん、写真撮影さえも禁じられたわけだ。私は管理人に許可を得た後、手を合わせた。左側の墓は、麻山事件のものである。
 1984年に建立されたが、数多い開拓団の惨劇の中でこのような墳墓を建立されているのは、この麻山事件だけである。麻山事件は中国国内でも、特別視されていることが伺われる。

墓の後ろ側にある円形のコンクリートの中には、遺骨が納められている。無論犠牲者の中のほんの一部であるが、冷たいあの丘で朽ち果てるよりもずっといいのかも知れない。

タクシーは、伊漢通を目指した。伊漢通開拓団の跡地であり、多くの開拓団民が遠くから避難の果てにたどり着いた場所である。その中には南靠山屯開拓団の方がたも数多く、ここで越冬している。ここも、タクシーではほんのわずかな距離であった。

豊かな村と聞いていたが、やや近代的な家屋よりも、昔ながらの土壁と茅葺の屋根のものが数多く残っている。電気だけははいっているものの、豚や鶏と一緒に暮らす生活などは、やはりタイムスリップしたような印象を受ける。

『次はどこに行きますか?』 と、運転手の馬建明さんが尋ねる。私は、『船駅』と書いてみた。馬さんは、すぐに諒解してくれた。大河松花江(しょうかこう) のかつての船着場も、本当にすぐ近くであった。さすがに、松花江は大きいが、川の向こうの平原の広がりの方に私たちはドキモを抜かれる。本当の『満州』を見たような、気がした。川には水鳥が遊び、船が通る。

地元のおじさんとおばさんがいる。開拓団の話をすると、納得してくれる。写真には、照れて仕方がないのだがようやく収まってくれた。とても素朴で、心温かい人々だ。これらの人々に、残留孤児が育てられ女性は妻として愛しまれたと思うと、私は少しだけ安心した。

  私たちはとても心豊かになり、方正からハルビン行きのバスに乗った。タクシーを降りるときに、馬さんが紙に書いてくれた。
『私の妹は、大阪にいます』 と、日本と方正の関係は深い。


   
〈コウリンでお世話になった焼き物屋の人々と。2004 10 22)

                               
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