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        方正県と羽賀忠雄さん                                     
                       
南靠山屯(みなみこくさんとん)開拓団


  
中華人民共和国黒竜江省                                                                                
  
    
       〈我々が利用した路線バスと方正市内の町並み。未舗装の道から忽然とやや現代的な町が現れた。 2004 10 23)
                                     
 
 
        〈オートバイタクシーに特徴がある〉

 
          (町の周辺は畑作地帯)

 
       (日本人墓地の入り口。訪問者は少ない〉

 
     〈周辺の道。殆どは未舗装である)

 
   (アヒルを追う老人。日本人墓地周辺で〉

一行はこの大梦密(タルミ)の集落に、一週間ほど滞在している。食糧が底をつき、人々は生きていくために夜の闇にまぎれて、附近の畑に食べ物を求めた。更にここで、ソ連軍から武装解除を受けた。
『私たち子供も銃を持っていましたが、途中で捨てました。ソ連軍に武装解除を受けましたが、同時に略奪も受けましたよ。時計などの、貴重品です。私は、盗られるのが厭だったので自分で時計を分解したところ、それをソ連兵に見つかって、平手打ちされました。子供でしたから、飛んでいきましたよ』 忠雄。

そこから、3日ほど歩き得莫利で、日本兵と開拓団は別れている。兵隊たちは、小尖山方面に連行されていった。県庁のある方正までは、そこから10キロあまりである。

一行は方正の城壁に行く手を阻まれ、野宿をかさねていく。結局ソ連軍の誘導で連れて行かれたのは、その後落ち着く先となる五班(ウーパン)集落である。ここももとは、日本のある開拓民の集落であった。
『五班の集落には、3つの開拓団が暮らすことになりました。その数は、7000名あまりです。私たちは早くやってきた開拓団だったので、基本的に家がありましたが、後からやって来た2つの開拓団には住むところがなかったんです』『梦碎満州』羽賀君枝。

『私たちはね、土を掘って丸太を建てて家を建てましたよ。南靠山屯開拓団の人が、300人くらいいたんでしょうね。その家の真中にドラム缶を置いて火をたいて、越冬したんです。食べ物は伊漢通に、取りに行ったりしました。ある夜、中国人に襲撃されて姉(君枝)と一緒にいた若い女性が、撃ち殺されました。胸の横を、打ち抜かれました』 忠雄。

方正での越冬は、多くの犠牲者をだしている。栄養失調と伝染病で、『7000名のうち4000名ほどが、春までに亡くなりました。私の家族は4人が亡くなりました。祖父・祖母・弟・妹です』『梦碎満州』羽賀君枝。

 忠雄の記憶では、妹は小学校3年生で、中国人に預けられた後、翌年に帰国しているという。
『死体は、中国軍が食糧を届けてくれた帰りに現在慰霊碑のある砲台山などに持っていってくれました。人が亡くなると、アンペラに包んでその辺に置き去りですよ。私の弟も、亡くなったあと道端に放置されたんですが、翌朝見に行くと狼に運び去られていました。
 死体に対する考えが、日本と中国では違いますよ。中国では、現在でこそ火葬になってきていますが、当時7歳
以下の子供はその辺に捨てられてお仕舞いでした。犬や狼に食べられるのは当たり前で、逆に食べてもらえないと犬も食わないとなってしまうのですから。春になり川の氷が溶け、そこから子供の死体がたくさん姿を表すということや、遺体から衣服を剥ぎ取る事も、もともと日常の風景なんですよ』。それにしても、すさまじい光景であったことだろう。

 ある資料では、三江省方正県伊漢通開拓団の実態を紹介している。三江省に入植していた三三の開拓団は方正街飛行場に集結し、伊漢通開拓団は収容所に充てられた。そこでは
「衣料、食糧その他所持品の大部分を掠奪され、飢餓と寒気の募る中に暖房、医療施設などなく、全員が栄養失調と悪疫に悩まされ、あるいは満妻となり、あるいは満人に一人二百円で子供を売るもの等が続出した。
 伊漢通団本部では約二千名が収容され、その約半数が死亡した。昭和二十年十二月に屯長が日本人救助布告を出し、満妻(ママ)または満妾(ママ)になることを奨め、満人の下層階級は日本人婦人を妾に要求した」と報告されている

人々は、生きていくための決断を迫られた。君枝と二人の叔母は、中国人に嫁いだ。昭和5年生まれの君枝は、僅か満15歳であった。

姉の君江が嫁ぎ、忠雄たちはもとの住居に留まっていたが、時々君枝は食糧などを届けたという。大量の死者を出し、ようやく春がきた。元気のあるものは、帰国のために哈爾濱(ハルピン)に移動していった。忠雄たちには、そのチャンスはやってこなかった。昭和21年7月、母が病死し、忠雄は帰国する理由を失った。

『帰っても、誰もいないし第一帰るところがないんです。そのまま方正に、残るしかないんですよ』。大工の見習いから、建築士への道を進むことになる。中国語にも堪能で、1級建築士の免許まで持つようになる。

昭和28年、20歳の若さで現在の奥さん治美(はるみ)さんと結婚している。治美さんは、旧姓阿久津治美さん、父は方正県庁の総務課長という要職にあり、昭和12年に生まれたのも中国国内であった。治美の父はソ連軍に連行され、母は方正に残っている。

『実は、暮らしぶりはよかったんです』建築士として成功した忠雄は、収入も多く中国名『賀忠林』として社会的地位も高くなってきた。

帰  国

しかし、1960年ころから、周りの中国人が帰国を勧めだした。文化大革命の前触れが、見え初めていた。
『多分周りの中国人は、文化大革命が起こることを知っていたんですね。  もし残っていたら、私なんて殴り殺されていますよ』

 文化大革命は、中国に残った日本人にとっては災いであった。日本人という事だけで、迫害糾弾をうける。ましてや社会的に成功した者は、反革命分子の筆頭に上げられ、労働改造所送りや処刑が考えられた。

 忠雄には、3人の子供を連れ自力で帰国する以外に方法がなかった。日本で法務関係の仕事に就いていた治美の兄の尽力で、帰国のための書類が整えられた。夥しい数の、戸籍関係の書類である。香港を廻り帰国を果たすのは昭和38年、忠雄は満30歳になっていた。22年ぶりの祖国であった。
 帰国後、姉君枝の帰国にも尽力することになる。姉君枝の帰国を果たすには、その後実に20年を要する事となる。

 


  
      〈現在の伊漢通開拓団の跡地。そのまま当時の民家が使用されていることに驚く。2004 10 23)

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