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         南下した大草家                                     
                      
南靠山屯(みなみこくさんとん)開拓団


  
中華人民共和国黒竜江省                                                                                
  
              
           〈三道河子付近の牡丹江。北側から南側を見る。この周辺を大草さんたちは南下した。2004 10 22)
                                       
 
 
  〈大陸に上陸したばかりの写真。前列中央で学生帽をか
  ぶっているのが正一。二列目の右から二人目が、大草
  房子。その左隣が母クラヨ、抱かれているのが二三子〉
  
           
   
            (大草正一さん

 

 
      (三道河子の集落 2004 10 22〉

 
  〈大草さん一家。後列右端に大草正一さん〉

 
   (中央に父藤五郎。膝にヨシ子。右に房子と二三子〉

 
       〈滝川市にある慰霊碑〉

 
        〈多くの名が刻まれている〉



  



 こうして、約500名の南靠山屯開拓団の殆どは西に向かい、方正(ほうまさ)方面で冬を迎え、139名の死者を出したとされている。しかし中には方正(ほうまさ)には向かわず、南に向かった一団もいた。その数約80名、この人々は関東軍の兵士たちとともに南下したものの、現地中国人の襲撃を次々にうけ、分裂を繰り返し悲劇的な末路を迎えて行った。現在北海道滝川市に在住している大草正一(しょういち)さんは、困難の末に帰国できた数少ない元南靠山屯開拓団員である。

穏やかな笑顔で応対してくれる現在の大草さんからは、当時の悲劇はなかなか連想できないが、お話してくれた内容は、満州国開拓民の悲劇が全て詰まっている壮絶なものであった。

正一(敬称略)は、昭和4(1929)年に、北海道湧別町計呂地(けろち)の開拓農家に生まれている。父藤五郎は徳島県、母クラヨは愛媛県の出身であった。薄荷(はっか)が主な作物であったが不作がつづき、それまでの生活に見切りをつけて満州に渡ることとなった。

それは、昭和16年3月のことであり、兄の大草一二三(ひふみ)が前年に下見をして南靠山屯開拓団の一員となった。計呂地地区からは大草家とともに、橋本家と梅井家が同行した。下関から荒れる日本海を渡り、北朝鮮の清津に上陸し、列車を乗り継ぎ勃利で下車している。勃利から馬車に揺られて60㎞、依蘭に到着。そこから、南靠山屯開拓団の北見部落に入植した。

 土地は肥沃で収穫も順調となり、人々の暮らしにも表情にもゆとりが出てきた。開拓団の人口も年々増加し500名を超えるほどになってきたが、戦局は逆に悪化する一方で、昭和19年春から応召する男たちの数が増え、昭和20年からは『根こそぎ動員』が始まった。

『17歳から45歳の男たちがそれこそ、根こそぎ召集されていきました。100名以上の団員が、抜き取られましたね。私は16歳になったばかりで、開拓団に残ったんです』。既に召集されていた兄良一のほかに、一二三長一の2人の兄も召集された。工藤団長も副団長(兄の大草一二三)も召集され、他の開拓団同様、女子供・老人だけが残されていた。開拓団にはラジオも新聞もなく、戦局は一切知らされていなかったという。
『本当に、何にも知らなかったんです。 沖縄のことも、広島のことも、そしてソ連が参戦した事も』正一。

 脱 出

そして8月14日午後4時ころ、北靠山開拓団の方向から馬が駈け、達蓮河警察署から『ただちに集結すること』という命令が飛び込んできた。しかし、既に夕刻であり、夜道は危険であった。集結を一日伸ばしてもらうために、正一と石川大七の二人が馬上の人となった。
『そうです達蓮河警察署に行き、伊藤警察署長にこのことを頼みました。温和な方で、直ぐに承諾してくれました』。二人は、片道24㌔の道を往復し、15日の未明に開拓団に戻っている。既に、日本人に反感を持つ中国人たちのざわめきの気配があったという。正一たちは、そのまま一睡もせずに15日の朝、再び達蓮河に向けて出発した。

『全部で460名くらいだったと、思います』。達蓮河で着のみ着のまま一夜を明かし、松花江の港町沙河子(サホーズ)に移動したが、軍や警察と行動を共にするとかえって危険ということになり、北見部落と紋別部落の人々約100名は、3日間野宿を繰返して再び開拓地に戻ることになった。

しかし再び戻った我が家は、既に中国人の略奪にあっていた。何もかもが奪われていたが、更に武装した中国人に腕時計などの略奪を受けている。
『武器は穴を掘って埋めてしまっていたので、鉈(ナタ)くらいしかなかったと思います。いったん開拓団に留まり、そのまま残留しようと思っていたところに、兵隊たちが来ました。富錦(フーキン)から来たらしい、百数十名の関東軍でした。8月22日だと思いますよ。牡丹江は陥落していないから、牡丹江に向かう。お前たちも連れて行ってやると、言い出したのです』。

兵隊と開拓民合計200名分の食糧の準備が、始まった。
『そこに運悪く5人の中国人が通りかかり、兵隊たちにつかまってしまいました。その5人は、食糧の準備のために散々こき使われたのです。そして作業が終わると、なんとその5人は殺されたんです。1人は、手を縛られたまま逃げました。すると小隊長が消音機のついたピストルで、撃ち殺しましたよ。その他の四人は、銃剣で殺されたんです。年齢は、30~40歳台だと思います。
 1人は、顔見知りの中国人でした。何も、殺す必要などないのです』。

 こうして、食料の準備がある程度整った後、関東軍と開拓団の合計200名が、南下を始めた。大草・稲毛・山田・相楽・梅井・佐藤・工藤・重田・西村・橋本・林・萩原・
保科・松浦・平山の各家の計80名が南靠山屯開拓団の人々と言われている。

正一の大草家は、父藤五郎・母クラヨ・出征した兄一二三の妻房子とその3人の娘である小学一年の長女ヨシ子・四才の次女二三子・そして幼い三女のエミ子の計7名であった。
『道のない山の中を、昼間は危険なので夜歩くんです。兵隊がナタで木の枝をはらい道をつくって、私たちがそのあとを必死についていくんです。私は、姪の二三子(4歳)をおんぶしていました』。

開拓民は、この歩く速度の速い兵隊たちだけが、望みであった。しかし、所詮関東軍は開拓民の味方ではなかった。
四道河子(よんどかし)の町の近くで、突然小隊長が言い出しました。泣く子は処刑するしかないだろう。というのです。二歳以下の子供たちが、殺されました。 多分銃剣で殺したのでしょう。(銃声をたてるわけにはいかない)その時、房子姉さんの一番下の子エミ子も犠牲になったのです』。

この地四道河子(よんどかし)での、犠牲者は10名と記録されているが、真実はわからない。母親たちは泣き叫び、老人たちが彼女たちを慰めた。阿鼻叫喚の、すさまじい光景であった事だろう。

その後、三道河子(さんどかし)までの間に、2度襲撃を受けている。ソ連軍や中国軍の動きも活発になってきた、戦争はとっくに終わってしまっている。昼間はじっとして、夜になると昼間目をつけておいた畑に入り、作物を手に入れた。馬鈴薯やトウモロコシを生で食べることもあったが、谷間でこっそりと煮炊きしたこともあった。しかし、確実に人々の体力は消耗していった。

移動は、夜間に限られていた。半月夜、山中から抜け出しニ道河子(にどかし)の集落に入るところで、激しい銃撃をうけることとなる。

『夜中の12時ころだと思います。完全な、待ち伏せ攻撃だったと思います。夜中なので大丈夫と、集落を通り抜けようとしたんですよ。前方で、ぱたぱたと兵隊が倒れていきました。直ぐ傍の兵隊が足を負傷し、その直後に手りゅう弾で自決したのを見ました。また、兵隊たちが土塀に次々と突撃していくのも見えました。すると、土塀の上から中国人が火のついた藁を投げつけていました。火達磨になっている兵隊も見えました』。激しい戦闘が、5~7分続いた。

『気がついたら、母が居ないんです。どうすることもできません。あたりは真っ暗ですから。母とは、それっきりです。流れ弾にあたったのか、中国人に拾われたのかも何も分かりません』。ここで、二人の婦人が行方不明になっている。集団も、完全に分裂してしまった。

大草家は5名となり、梅井家の7名・富樫家の8名と行動を共にすることになった。関東軍兵士ともわかれ、20名の小集団はただ南に向かって歩きつづけた。

『富樫家のおじいさんが、案内役でしたね。もう牡丹江も危険だから、牡丹江を避けようということになりました』。足取りは、更に遅くなった。靴は破れ、背中から太ももまで虱が走り、日中裸になるとパラパラと落ちた。

鏡泊湖(きょうはくこ)を過ぎたころには、10月を過ぎていた。塩もなくなり、急速に体力が衰えてきた。
『父が、とうとう動かなくなりました。父は、59歳でしたよ。かすかな声で、おまえたち日本に帰ったら、俺はこの地で最後を遂げたと兄たちに伝えてくれと言いました』。正一たちは、手を振り分かれるより仕方がなかったという。この場面を語る正一さんの言葉は、少なかった。多くの老人たちが、このような形で最期を遂げている。

『他にも、置き去りにされている老人を見ました。その人は、必死に拝んでいました。連れて行ってくれと頼まれましたが、どうすることも出来ませんでした』。

救 出

その後、夜も寒くて2時間ほどしか眠れなくなったある日、
『銃を持った中国人の4~5人に、取り囲まれました。そして、カタコトの日本語で真剣に言うのです。もう、戦争は終わっている。今日は、10月20日です。とにかく、私達の村に来て食べ物を食べなさい』。

 こうして、言われるままに村に行き、食
事を与えられた。この村が、吉林省敦化県合五屯(あいごとん)である。生きるためには、男は働き、女は中国人に嫁いだ。

『ロウイという家に、お世話になりました。とはいってもひどい食事で、働かされましたね。兄嫁の房子はヨシ子と二三子を連れて、中国人に嫁いでいきました。梅井家の二人の娘さんも、中国人に嫁いでいきましたが、間もなく二人とも病死してしまいました』。その後、正一は最初の中国人宅を出て、黒石屯(こくせきとん)という村の豆腐店に逃亡同然で移動している。
『この豆腐店はロウアンジャ家と言って、親方は同じ食事させてくれましたよ。昭和21年の9月に日本に帰る事になった時は、小遣いまでくれました』。

 こうして翌年、日本への引き揚げが始まった。正一は、兄嫁の房子のところに行った。

『姉さん、日本に帰ろう』しかし、それは無理なことであった。中国人のもとに嫁いでしまった房子は、日本には戻る事が出来なかった。昭和21年10月に帰国した正一には、日本に帰る家とてなかった。

 行方不明のままの母の実家は、愛媛県宇和島である。いったん、そこに身をおいたあと、昭和22年2月に兄長一から便りが届いた。召集されていた兄長一は昭和21年に無事帰還し、北海道赤平市の炭鉱で働いていた。これをたよって、正一も北海道に渡ることになる。兄の一二三が帰国するのは、昭和24年のことである。

 シベリア抑留からようやく帰国した兄一二三に、正一は満州での事実を伝えなければならなかった。両親を失った事、そして妻の房子と子供たちのことを。長女だったヨシ子は、昭和28年ころに帰国している。帰国後は、実父の一二三のもとで一緒に暮らしたという。そして、妻の房子と次女の二三子は平成5年に帰国している。

 しかし、夫だった一二三は、平成2年に既に他界している。房子さんも
、昨年平成15年に90歳で他界していた。二三子さ
んは、敦化で日本人と結婚し、現在名古屋市にいらっしゃる。こうして大草家は、戦後も大変なご苦労をされている。
『現在も、中国残留孤児を支援する活動をしているんですよ』。正一さん。


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