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          中国に残った少年                                       
                          平田満夫さん
 

 
中華人民共和国黒竜江省                                                                                
  
  
                〈宋宝華さんが父親平田満夫さんの遺影を手にした瞬間。 牡丹江駅北口で 2004 8 9)     
      
                  
 
 
    〈訪中団が牡丹江駅に到着。中央に平田隆さん)


 


 
             (牡丹江駅北口)


 

 
            (宋宝華さん夫妻〉


  
   〈平田隆さん 北海道網走市の自宅で)

 
 


 
    (現在の牡丹江は大都市になっている〉





 平田家四人が新京へ移動していくのは、昭和21年5月ころである。この時宋春栄の話では、「きっと20年もたてばまた再会できるだろう」という事であった。しかし、実際には30年もの月日が必要となっていく。
 新京に出た一家は、大福餅を売りながら帰国を待った。平田家の四人はその年の暮れに帰国するが、吉林に残された武夫と満夫は、どうなったのだろうか?
 

   武夫・満夫との再会

 まずは武夫と音信が取れたのは、昭和50年の事であった。武夫は、生きる力が強かった。終戦時わずか6歳であったが、自分の名前や父親の職業を記憶していた。当時、次々に日本を訪問する残留孤児の一人に日本での調査を依頼して、自分の身元を探し出した。隆自身も大変に、驚いたという。
 こうして武夫は、昭和54年ころに日本への永住帰国を果たしている。5人家族で帰国し、現在札幌市に居を構えている。満夫の消息は、武夫が探し出すことに成功した。牡丹江にいた満夫は、自分が日本人であることも知らなかったという。満夫は、宋世君になっていた。

満夫にも中国人家族がすでにいたが、単身日本に戻り(吉林生まれだが)職に就いた。数年間、牡丹江の家族に仕送りしていたという。1998年に、永住帰国を果たしたが、2003年12月14日に肝臓ガンのために北海道網走市で逝去した。62年の、短い生涯であった。



 牡丹江(ムータンチャン)という町の名は、なんと悲しい響きであろう。ソ連軍の参戦と終戦の混乱の中で、多くの人々がこの町を起点に人生の方向を違えていった。その牡丹江に私達訪中団がたどり着いたのは、2004年の8月10日である。瀋陽北駅19時発の普通寝台列車は13時間をかけて、900キロ先のこの町に到着したのは、翌日の午前8時ちょうどであった。

平均時速70㎞のゆったりとしたスピードは、私達の体にとても優しかった。夜が明けると素朴な農村地帯がひろがり、農村の家屋の煙突からは朝餉のための炊煙が上がっている。多くの開拓民が、この線路沿線の道を哈爾濱(ハルピン)に向かって逃避行したのであろう。   

平田満夫さん

牡丹江に到着すると、大切な仕事が待っていた。平田満夫さんの遺骨を、遺族に届けるのである。満夫さんの息子さんか娘さんが、迎えに来ているはずだが姿が見えない。私達が出た駅の出口は、北側であった。反対の南側がメインの出口であるから、そちらで出迎えている可能性が高い。私達は、気がせった。

『早く行かなければ、逢えないかもしれない』焦る気持の中で荷物が重く、身動きがとりにくい。すると、歓声が上がった。
『満夫の娘だ。顔が満夫とそっくりだよ』平田さん夫婦が、はっきりと言う。そこには、亡くなった満夫さんの長女宋宝華(36歳)さんとそのご主人の姿があった。
 通訳を勤める藤田元子さんが、間に入って本人であることが確認できた。
すかさず、満夫さんの遺影が出される。それを手にした宋宝華さんの目に、涙が溢れる。通訳役の藤田元子さんの目にも、そして平田さん夫婦の目にも・・。
 その後満夫さんの長男宋鉄鋒さんとも合流し、平田夫妻は姪にあたる宋宝華さん宅を訪問することとなった。

『来て良かったです。こんなに歓迎してくれるとは、思っても見ませんでしたよ。満夫の墓を造ってくれと、資金を渡してきました』と、平田さんは語った。

    平田隆さんと吉林暴動

今回の中国訪問団を組織する中で、ある日私は斜里町の藤田元子さんより電話を頂いた。
『ある方の遺骨を、中国の牡丹江に届ける人がいるんですが、その方が同行を希望しています。中国に残って、残留孤児になられた方のものです』。難しい事情が、ありそうだ。網走市に平田隆さん宅を訪問し、話を聞く中で『今回の遺骨』の事情がわかってきた。

『私の末の弟満夫(みつお)の、遺骨なんです。残留孤児だった弟満夫が、日本に永住帰国していたのですが、中国に中国人家族を残しての帰国だったので、その遺骨を中国人家族に届けに行きたいのです』。満夫さんは、前年暮れに病死していた。

 その満夫さんが、なぜ残留孤児にならなければならなかったのか、まとめて見たい。・・敬称略・・・
 平田隆は、昭和5年にサハリン当時の樺太知取(しりとり)町に生まれている。父沢一は、運輸会社(国際運輸)に勤務していた。隆が小学校6年生になった昭和16年の夏に、満州から父がやってきた。久しぶりに家族がそろい、平田家は満州の吉林市へと移住して行く。

『当時の吉林には、3万人もの日本人が暮らしていました』昭和17年春に、隆は吉林中学校に入学する。
『木銃を担いで松花江の橋を渡り、片道3キロの道を通っていました。戦局は、よくわかりませんでした。中学三年の時に、父親がもう日本はだめだ、負ける。と言ったんです。私は日本帝国は絶対に勝つよと父に逆らったんです。それに対して、父は何も言いませんでしたよ』

 終戦の年の昭和20年は、隆も中学4年生である。授業はほとんどなく、宮城県から入植した開拓団の勤労奉仕に動員されていた。偶然にも、勤労動員が終わる時期とソ連軍の参戦の時期が重なった。

  終戦と吉林の大暴動

 吉林でも多くの日本人は、ソ連の参戦と終戦で逃避行を始めるが、平田家は、吉林に残る道を選んで行く。
『吉林の大暴動』とは、8月31日に起こる大暴動である。この暴動に、平田家も遭遇することとなる。この日父沢一は、唯一の実弟である次郎夫婦を送り出し、所持金5000円ほどを包帯状にしたゲートルの中に仕舞い込んでいた。その時、表の通り(四条通り)をいつもの野菜売りの声が響いた。

『ヤサイー・ヤサイー』と、父と隆はその野菜売りから、ごぼう・キャベツなどを買おうとした。その時周りには、8名ほどの男女のソ連兵の姿が見えた。金を払おうとした父沢一に、突然二人の男が襲いかかり父の両腕を取った。その瞬間隆は蹴り倒され、顔面を始め体中を踏みにじられた。隆は、どうする事もできない。

『隆、逃げろ・逃げろ』と、父は大声を出し、二人は無我夢中で逃げた。どうにか家の中に入ると、額から血を流しながら父は、木銃に手をかけていた隆に向かって、
『おまえは、逃げろ』と、隆の木銃を引きちぎり、
『おまえは、母さんやおばあちゃんを守れ』と言い、日本手ぬぐいで鉢巻きをして木銃を持って出て行った。
『隆、何があったの?』と、母マサエが隆に尋ねた。
『母さん、匪賊〈ひぞく〉だ』。その時、ソ連兵の発砲する自動小銃の音が、耳に数十発も聞こえてきた。
『ああ、父さんはもうだめだ』と隆は思い、祖母ハルと母マサエを便所に隠した。しかも、弟武夫・満夫、妹カズコの姿は見えない。表の喚声や銃声に、震え上がるだけとなっていると、母が便所から出てきて祖母ハルを押入れに隠し、母と隆が便所に隠れることになった。そのうち、玄関の戸を打ち破って暴徒の群れが乱入してくる。隆が戸の隙間から見ていると、暴徒たちは、前夜叔父次郎のためにつくった料理を、手づかみで食べている。

『誰かイナイカー・イナイカー』と、暴徒の群れは怒鳴りたて、押入れから祖母が、引きずりだされた。祖母が、
『何もございませぬが、お許しくだされ』と、言っているのが見えた。隆はもう駄目だと思い、母と便所から出て祖母の両側に座り込んだ。
『金をだせ、金を出せ』と、叫んでいる数人の男たちに取り囲まれた。するとそこに、日本語のうまい男が現れ、
『あなた方はここに居たら危険だから、外に出なさい』と言うので、それに従って3人で表通りに出ることになった。通りには、不思議と人1人居ない空虚な空間が広がっていた。

3人は、そのまま父沢一の会社「国際運輸吉林支社」に怯えながら向かった。支社の建物内には、机や椅子などがうず高く積み上げられ、多くの住民が集まり騒然としていたが、3人が姿を表すと室内は静まり返った。青年隊の稲玉氏が隆に近づき、少しずつ状況が判明してきた。

『近藤さんと大金さんが、やられた。鎌田の奥さんは、抱いていた赤ちゃんが死んだ』という。父の安否が気遣われたが、幸運にも無事だと言うことがわかってきた。ともかく、社宅全体が100名を越える暴徒に襲撃され、略奪されたわけである。この日合計3名が、犠牲となった。

ここで隆たち三人は、炊き出しの握り飯をたべ血だらけになっていた衣服を着替えた。社宅のその後が、心配であった。
 隆が、様子を見に行くことになった。母たちは、危険を理由に制止したが、稲玉氏が、
『満人は、子供には手を出さないはずだ』と言い、隆は満服に再び着替えさせられた。
『社宅にもし誰もいなかったら途中で命を落とさない限り、必ず帰ってこい。もし社宅に誰かが居たら、帰ってくるな』と言われ、武者震いするような気持ちで、隆は会社の裏門を出る。

3キロ程の距離を歩き、社宅にたどり着いた。そこで、住宅の煉瓦は銃撃で削り取られ、窓ガラスの大半も破壊されている有様を目にする。隆が、人気のない中庭にたたずんでいると、
『隆ちゃん。隆ちゃん』と声がする。
 それは、二階建て社宅の右端の、小田さんの声だった。小田さんは、奥さんと二人の娘〈17歳・18歳〉とともに、社宅に残っていた。彼は、階段全体を薪で塞ぎ、暴徒の乱入を防ぐことに成功していた。梯がおろされ、隆が室内に入ると、そこには大勢の日本人の姿があった。

その中に、父沢一と弟妹の姿を見つける事ができた。隆は、嬉しさに思わず歓声を上げてしまったが、父が、
『黙りなさい。犠牲者が居るんだからな』と隆を注意した。小田さんの奥さんが、
『隆ちゃん、これを食べなさい』と、握り飯を渡してくれたが、
『会社で、食べてきたばかりです』と断ったところ、再び父が、
『食いだめをしろ』と言ったので、周りの人々の顔が笑顔に変わった。

こうして、一旦惨禍は去ったかのように見えたが、9月22日の夜ある朝鮮人の案内で、ソ連兵がピストルを持ち隆たちの共同生活していた屋敷内に乱入してきた。大勢の目の前で、二人の女性が強姦されたという。そして案内役の朝鮮人は、金品をすべて巻き上げていった。それにしても、目の前で日本人女性が強姦される姿に、隆は深い失望感と怒りを感じた。

新京(長春)

昭和21年の年が明けた。残された日本人の境遇は、好転する見込みはなかった。中国共産党軍の下の『八路匪』と呼ばれる集団や、ソ連軍の勢力下に置かれることは確実視されていた。
 父沢一は、吉林を出てとりあえず新京(長春)に出ることを家族に提案した。隆も賛成するが、大きな問題があった。幼い昭和14年生まれの四男武夫(たけお)と、昭和16年生まれの五男満夫(みつお)の処遇であった。
 『連れて行くのは、不可能だろう』と言うのが、父沢一の考えであったが、
『途中で死んでも良いから、連れて行きたい』と、母マサエは泣きながら訴えていた。しかし、結局武夫と満夫は、中国人に預けられることとなる。この満夫の遺骨が、今回中国に持参したものである。

預けられた先は、父沢一の国際運輸会社の職員であった宋春栄である。宋春栄は、実に一千名の苦力(クーリー)を傘下にする苦力頭であった。沢一との信頼関係は厚く、終戦後も食料などの面で平田家を援助してくれていたのである。
 預けられた二人の兄弟は、その後別々の家で人生を送ることになる。満6歳の武夫は、時々実家に逃げ出すように戻ってきたという。その姿を父沢一は見つけるたびに、武夫に向かって竹箒を振り上げ
『帰れっ、ここはおまえの家じゃない』と叫び、武夫を追い返した。なんと、悲しい光景であろう。父沢一の、心境を察するにあまりがある。現在札幌市に在住している平田武夫氏は、現在もこの光景を忘れられないという。


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