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        撫順フーシュン平頂山事件                                         
                             
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    〈現地では「骨の池」と呼ばれている 2004 8 9)

 
           (もっとも胸をうつ遺骨)

 
              (母子であろう〉

 
    〈中国語表記の裏に日本語表記がある)
 
 
 
(死体を隠蔽するために焼く木材が運ばれてきた〉


 平頂山事件記念館(平頂山殉難同胞遺骨館1971年建設)ここには、日本の満州国支配の恐るべき真実がある。

 平頂山事件とは、1932年9月16日から起こった、関東軍の中国人虐殺事件の名称である。1931年の9月18日の柳条湖事件により満州事変が開始されたが、一年後の32年9月15日、この日日満議定書が結ばれて、正式に満州国が誕生した。

つまりこれは、日本が中国から満州を切り離して、日本に都合のいい傀儡(かいらい)政権を作ったことになる。9月18日の柳条湖事件の記念日を前に、現地中国人の怒りは頂点に達していた。

撫順(フーシュン)の日本人も、危険な空気を感じていた。9月15日は中秋の名月であり、日本人にも中国人にとっても祝い事の日(中秋節)である。日本人は、月見をして遠い祖国を思う日であった。

当時の撫順(フーシュン)の人口は30万人、そのうち日本人は2万人であった。反日勢力が蜂起するという風聞が流れ、9月15日日曜日の夜は不気味な空気に包まれていた。爆竹も禁止され、人々は聞き耳を立てていた。

日本軍の守備隊は僅か200名だったため、多くの民間人も自警団として組織されていた。北側は大河が流れ、西側は先の西露天坑がある。襲撃されるとすると、南側からと予想された。

そして9月16日午前一時ころ、一斉に南側から三方向に分かれた土賊が来襲し、次々と炭鉱事務所や社宅が襲われた。襲撃したのは、紅槍会という反日勢力である。主要な武器は槍だけであったが、銃弾が当っても死なないという迷信を信じたこの集団の攻撃は果敢であった。

四箇所の採炭事務所が、計1000名の土賊に襲われたといわれている。襲撃は午前4時すぎまで続き、大方は撃退されたが日本人4名が殺害された。この時の、守備隊の長は井上中尉である。彼の妻は、夫の出征を励ますために自殺した経歴をもつ。これは当時尽忠の美談として報道されていた。それだけに、井上中尉は過剰な責任感を感じたのであろうか。状況から、日本軍守備隊の動向は匪賊に筒抜けであったことは確かであった。スパイの存在に、井上たちは過剰に反応した。

『近くの村が怪しい』或る村に、目をつけた。その村の名が、平頂山村である。井上は、僅か一個小隊の部隊でこの村に独断で出動している。

『事件があったので、軍事演習をする。中秋節なので、記念撮影もする』と言って、巧みに村人3000名を山陰におびき寄せた。トラックの荷台にシートが、掛けられていた。村人にはカメラと偽り、シートがめくられた。
 カメラは、機関銃であった。村人は虐殺された。言語道断の住民虐殺である。銃撃後は銃剣で1人も生かさぬとばかり、兵士は住民を突き刺した。そして日本軍は、証拠の隠滅を図った。木材とガソリンが運び込まれて、火が付けられた。

そして爆薬で山は崩され、遺体は土で覆われた。これで、全てを隠せと通せるとでも思ったのであろうか。生き延びた人々が、死体の間から抜け出し、この出来事は世界に伝えられた。国際連盟にも取り上げられ、日本は糾弾の矢面に立たされた。

虐殺された人数は、400-800人とも、3,000人とも言われている(集落の世帯数は約400)。

その時、日本はどうしたのだろうか。松岡洋介外務大臣は開き直り、翌年日本は国際連盟を大いばりで脱退していく。

現場は1970年に発掘され、世界に公開させた。日本人では朝日新聞の本田勝一氏がいち早く日本に紹介し、反響を呼んでいる。現在、約800体の遺骨が掘り出され、そのまま展示されている。ここでは人骨は、剥き出しである。
 
 日の光を浴びた800体の遺骨には、ひとつひとつ表情があり、私達に無念の思いを訴えてくる。折り重なる遺骨の中で、私達日本人の胸をえぐるのは、明らかに親が我が子を抱えてかばう遺骨である。性別は分からないが、明らかに親子と分かる。
 証拠隠滅のため、遺体も燃やす木材の燃え残りがある。何たる、日本軍の狡猾な代物であろう。

館長の平永春氏は、私達を歓迎してくれた。
『年間2000人の日本人が、訪問しますよ。この事件の生存者は6人居ましたが、現在ご健在の方は3名です』館内には、多くの日本の平和団体等が献上した花や供物がある。
 私達は、ここでは手を合わせ花を捧げることができた。


    
          〈女性と子供)                〈手を合わせる藤田元子さん)

   
        〈慰霊する私たち訪中団)              (平頂山殉難同胞遺骨館

    
  〈多くの花束は日本の各団体からのものが多い)          (模型展示がある)   


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