HOME〉Manchuriar                                                 Manchuria >2004


          中国に残った少女                                      
                   柳毛開拓団の運命Ⅶ 藤田元子さん
 

 
中華人民共和国黒竜江省                                                                                
  
                       
                     〈撫順炭鉱 西露天鉱あまりの大きさにかすんでよく見えない。 2004 8 9)     
      
                  
 
 
   〈慰霊行為は禁止され手を合わせることもできない
                       中央に藤田元子さん〉

   

 
 


 
         (ここは悪魔の高山として名高い)


 
           (展望台のそばを馬車が行く〉


   
    〈藤田元子さんと史さん 北京で)


 
     (現在の柳毛 2004 10〉



 

   撫順にて

藤田元子さんは、撫順の炭鉱で3人の親族を亡くしている。父の太田喜平と兄の正三(まさみ昭和2年生)・弟正司(まさし昭和7年生)である。
『いつどこで亡くなったのか、詳しいことは分からないんです。この炭鉱全体が、お墓だと思っていますよ』。そう話す元子さんの手には、線香の箱があった。私も、日本から花束を数多く作って持参していた。

しかし、線香を上げる事も花を捧げる事もそして手を合わせることも出来なかった。前日の夜、中国人添乗員の口から出た言葉は、
『慰霊は、出来ません。今年に入って、厳しく政府から指導されています』という内容であった。私たちに許されたのは、スモッグに煙る炭鉱の中をじっと見つめるだけであった。


これまで触れてきた柳毛開拓団の場合は、比較的早くソ連軍の参戦を知り、開拓団から鉄道駅も近く、すみやかに避難を始めることができた。避難列車にも、乗ることが出来た。昭和20年の冬を乗り切ることさえ出来れば、次の年には日本に帰還できるはずである。しかし、必ずしもそうならなかった人々も多い。

 現在北海道斜里町にお住まいの藤田元子さんの場合は、日本に帰国できたのは昭和49年のことである。実に、帰国するために30年もの年月が必要であった。
『中国に29年残って、日本に戻ってきて同じく29年経っているんですよ』電話では、かなり日本語がたどたどしく感じるが、直接お会いしてみるとはっきりした口調で、日本語も確かなものであった。元子さんがなぜ、29年間もの長期間中国に残留しなければならなかったのだろうか。

 藤田元子(敬称略)は、1929(昭和4)年北海道斜里町に、農業を営む太田喜平カンコの次女として生まれている。昭和14年、喜平は満州への開拓団に応募し、横浜から朝鮮に渡り柳毛釧路開拓団に入植している。元子は、昭和17年の12歳の時に、適道に住んでいた藤田ともはる・キヨエ夫婦の養女となった。
『親同士が決めたことで、私は子供心にどうしてと思いました。子供のいない家に、貰われていったのです』

8月9日のソ連参戦の日。

『適道の町は、火が付けられて燃えていました。柳毛釧路開拓団の実家家族とも一緒になって、避難列車に乗りました』適道の町が燃えていたのは、日本人が自ら火をつけたと考えられる。麻山・林口を過ぎ牡丹江に近づいた時に、ソ連軍の戦闘機に襲われている。
『列車の下に隠れた人の多くは、亡くなったと思います。私は、列車から離れたので大丈夫でした。でもこの時に、家族全員がバラバラになってしまったのです』
 実姉のキヨエとは、再会することが出来た。

『実の父(太田喜平)とも、一瞬会う事が出来たんです。でもそれが、実の父との永遠の別れだったのです。夜には、ソ連の戦車部隊が迫ってきていました。戦車のサーチライトの光が、見えましたよ』

結局元子は、実姉のキヨエと再会できただけで、牡丹江駅に移動した。牡丹江駅周辺は混乱し、殺気だった人々で溢れていた。軍人とその家族の移動が優先され、開拓民は後回しにされていた。
『駅の周辺には、手のない人・足のない人も大勢居ました。首のない赤ん坊を、そのまま背負っている女性も居ました』。

元子は実姉太田キヨエと列車に乗り、南に向かった。哈爾濱(ハルピン)方面には向かわず、吉林省方面に向かうことになった。敦化にたどり着いたが、そこで待っていたのはソ連軍兵士であった。ここで、約1000名の女子供老人だけの開拓民が、ソ連軍に身柄を拘束されてしまった。
『食べ物は、1日に1度だけ高粱と米のおにぎりが支給されました』。そして約二週間後、ソ連軍から国民党政府へ身柄が移された。

『農村に連れて行かれて、農作業をさせられました。少ない食べ物ときつい仕事で、半分くらいの人々が亡くなったと思います』
 夜間は学校のような建物に押し込められ、夜は決まったようにソ連兵が日本人女性を求めて乱入してきた。
『ひとりふたりと、連れ去られて行きました。ただの1人も、戻っては来ませんでした』15歳の元子も、危険であった。
 髪を短く切り、顔には鍋底の炭を塗った。女性で或る事を必死で隠すが、ソ連兵は女性の胸を触っては女性を捜し求めていった。
『私が狙われると、マーリンカヤー・マーリンカヤー(ロシア語で小さいという意味)と言って、周りの人々が私を助けてくれました』

 この年の10月ころ、

『このままではみんな死んでしまうと考え、私たちは夜の脱出計画を立てました。お金などは、昼間のうちに地面に埋めて隠し、目印をつけておきましたよ。そしてある日、150人程で脱出したのです。なんとか、敦化の駅にたどり着き、リーダーが交渉して貨車に乗ることが出来ました。 でも列車の中で、ソ連兵に強姦される人も居たんです』。

 哈爾濱(ハルピン)から瀋陽に行き、そこで初めて終戦を知ったという。既に季節は、冬を迎えようとしていた。多くの日本人は、瀋陽(シェンヤン)から帰国を始めていた。しかし、元子は帰国できなかった。
『実姉の太田キヨエが、病気で動けなかったのです。中国人から、小さな物置を貸してもらって暮らしていました。そして、キヨエは腹膜炎で亡くなったんです。27歳でした。
 実は日本人のお医者さんに、面倒を見てもらっていたんです。ある日から突
然そのお医者さんが、こなくなったんです。それで、私がそのお医者さんの所に行きました。なんと、お葬式の最中でした。そのお医者さんは、物盗りにお金持ちと間違えられて、路上で殺されたというのです。その数日後、姉はなくなったのです』

  北 京 へ

 元子は、一人ぼっちになり路頭に迷うことになった。そこで、中国人の史氏と出会うことになる。
『私の家族が北京に居るので、そこに行こう。北京は都会だから、帰国できる機会も多いだろう』。
 元子は史氏とともに、北京に向かった。北京では、早速政府機関に帰国を申し出た。しかし係官は、
『ご承知の通り、現在日本と中国の間に国交はありません。日本もわが国と同じように、国が崩壊し国民は生活の建て直しをはかっています。ここに居ても日本に帰っても、同じことです。頑張らなければならないのは、同じですよ』
 元子は、帰国を諦めざるを得なかった。北京市の史氏宅を間借りし、昼間は働いた。そして夜は、看護婦と針・灸の学校に通う事になった。
『言葉を覚えるのが、大変でした。中国語の漢字の下に、発音を平仮名でメモして覚えたんです。二年くらいで、日本語は忘れてしまいました』

昭和34年29歳の時に、現在の夫呉啓明氏と結婚している。四人の子供が生まれ順調な生活になったかと思った矢先、あの文化大革命が始まった。
『なぜ、日本人で或る事を隠していた?』などと、追求が始まった。
『働いていた病院でも、他のマレーシア人・香港人の人たちと一緒に、特別な学習を受けました。私は、はまだまだよい方でした。私の夫の父は、実は日本の憲兵だったのです。それはひどい目に、あったようです。首に看板を掛けられて、大衆の前で糾弾を受けたりしたんです。文化大革命は、とても極端なものでした。それからです。とにかく、日本に帰りたくなったのは』

1972年のニクソン米大統領の訪中を受けて、田中角栄が日中国交回復を果たした。日本との扉が、27年ぶりに開かれた。73年から、帰国希望者の調査が開始されていく。
『直ぐに、応募しました。私は、斜里町出身ということと両親の名前だけは覚えていましたから。一月ほどで、日本から返事が来ました。実の母カンコ兄(太田義勝)一人だけが、帰国している事が分かったんです』

こうして昭和49年6月に、四人の子供を連れて帰国を果たす事が出来た。日本語しか話せない母カンコと、中国語しか話せなくなっている元子は、28年ぶりの再会となった。
『母の顔も、忘れてしまっていました。言葉も、勿論通じません。でも顔を見るとね、同じなんです私の顔と。自分が、もう1人居るような感じでした。私は子供のころ、満州に渡る前に背中に火傷をしたことがあったんです。お風呂場での、出来事でした。その火傷の跡を、母は私の背中に見つけたのです』。

 こうして、言葉も通じない母子はお互いを確認した。そして同時に、実家太田家のその後の運命を、元子は母と兄太田義勝の口から知ることとなる。
 ソ連軍機の攻撃で、牡丹江を直前にバラバラになってしまった太田家の人々も、苦難の道をやはり経験している。元子の実父の喜平・三男の正三(まさみ 昭和2年生)と四男正司まさし 昭和7年生)は、瀋陽に近い撫順(フーシュン)の炭鉱で労働しながら、その冬のから翌年の春にかけて相次いで死亡していた。

何度も紹介してきた通り、撫順(フーシュン)は多くの日本人が、冬を越すために集結した炭鉱町である。長男の清(大正4年生)は、長春で幼い二人の子供と一緒に亡くなっていた。僅かに母カンコと兄義勝だけが、元子の帰りを待っていた事になる。

『母は、私が帰国した翌年の昭和50年9月に、安心したんでしょうね。亡くなったんです』太田義勝氏は、平成15年に永眠されたばかりであった。元子さんは、この地元では有名人である。

中国残留者として、日中国交正常化実現の産物として帰国を果たした最初の家族として大きく報道された事もあるが、帰国後も地元の病院に長年勤務してきた。そして現在も、貴重な中国語の通訳としてひっぱりだこである。残留孤児問題などでも、現在尚活躍中である。中国に残されていたご主人の呉啓明氏も、現在は東京にお住まいである。

『主人と電話で話す時は、中国語ですよ。日本に連れてきた子供たちは、あっという間に日本語を覚えて中国語を忘れてしまいました。子供たちと父親が話をする時は、私が通訳するんです』。なんとも、複雑な問題である。
『その主人ももう既に80歳なので、なくなる時は中国に帰してあげようと思っているんです』元子さんたち太田家の人々の半生も、壮絶であった。


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