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        シベリアに送られた男たち                                      
                     柳毛開拓団の運命Ⅵ 福岡正雄さん
 

 
中華人民共和国黒竜江省                                                                                
  
   
          〈鏡泊湖での福岡さん。 2004 8 10)                   (柳毛開拓団の青年学校〉                   
 
 
           〈牡丹江から東京城への道〉
 
 
         (途中には西瓜屋さんがいっぱい〉


 
        〈東京城の集落)

 
         (東京城で〉

 
 
    〈ハルビンのホテルで体験を語る福岡さん〉

 
            (寂寥感の漂う鏡泊湖〉

 
 柳毛釧路開拓団の男たちは、哈爾濱(ハルピン)に逃れた後、当地でソ連軍によるいわゆる『男狩り』を受けている。日本人成人男性が根こそぎ捕らえられ、シベリアの各地に送られた。
 中には奇跡的に、哈爾濱(ハルピン)に集結した柳毛釧路開拓団の元に帰還できた者もいたが、開拓団員の身分でなかった兵士たちの殆どは、シベリアに送られることとなった。


 その一人に、現在北海道音更町在住の福岡正雄(敬称略)がいる。彼は1922年北海道紋別郡興部村沙留原野で、開拓農家の三男として誕生している。ここでの暮らしは、困難を極めていた。土地にも気候にもめぐまれず、出稼ぎをして食いつなぐという、あてのない生活であったという。

そんな時に、満州行きの話が持ち上がったのである。多くの日本人が、そんな窮乏の末に満州を目指した。福岡正雄が滴道駅に降り立ったのは、昭和17年の春であった。早春の満州は、まだ寒さが身にしみた。

大陸の荒野を開拓することを夢見た正雄だったが、過酷な現実に直面し、血がスーッと引いていくのを感じた。日本人の入植地は、現地中国人から取り上げたものであり、目の前に泣き叫ぶ現地人の姿を見たからである。こうして、開拓民としての生活が始まった。北海道北部とは比べ物にならない、肥沃で豊かな土地であった。正雄は三週間発疹チフスで入院することがあったが、いつしか満足した生活となっていった。

成人した正雄は、45年7月当然のように召集を受けた。関東軍の、根こそぎ動員である。ソ連参戦時は、吉林省敦化の第139師団の司令部にいた。

 師団長付きの兵士だったことで、ソ連軍の直接の砲火からは逃れることだけは出来た。しかし、終戦とその後の運命は、誰もが逃れることができなかった『シベリア抑留』へと、彼を導いていく。
『終戦前日の8月14日、私たちの隊長(山田少佐)は、駐屯していた開の民間人に向かって、満州には無敵関東軍100万がおるのだから安心しろと言っていました。師団司令部構築のために、鏡泊湖に居ました。しかし、次の日が終戦だったのです。
 私たちの部隊は、敦化の原隊に戻る事になりました。すると開拓団(東京開拓団)の民間人が、私たち軍を頼って移動する私たちに助けを求めて、動き出す私たち軍のトラックの荷台にしがみつくのです。それを、振り落として私たちは移動したんですよ。ひどいもんですよ』。

その後、ソ連軍による武装解除があり、敦化から牡丹江そして東京城へと徒歩での移動が始まった。

鏡泊湖(きょうはくこ)

20048月、行動が制限された私達訪中団は、牡丹江から南へ約100キロのところにある鏡泊湖を目指した。ここであれば、訪問を許可するというわけである。

 その湖の姿を見るために、私たちは2時間バスに揺られた。広々とした農村地帯が続く、この辺りにも多くの日本人開拓団が入植している。朝鮮人の数が多く、所々に『狗肉』つまり犬肉料理の看板が目に付く。夕闇が迫っていたが、地元観光客で賑わいなかなかの観光スポットになっているようだ。

 福岡正雄さんの部隊がこのあたりを徒歩で移動したことになる。途中東京城という町に立ち寄る。
『私が通った時は、激しい戦闘があったらしく兵隊が重なり合って死んでいました』。福岡正雄。
『私たちの行軍の逆方向を、開拓民が逃避行しているんです。子供は、素っ裸でしたよ』現地中国人に、衣服をはぎ取られのだろう。

『その後、国境の町スイフン河から列車に乗せられました。ウラジオストックから帰国できると思ったのですが、半月以上も列車に乗せられ、海が見えました。それは、日本海なんかではなく、バイカル湖だったのですよ』。
 何たる絶望的な光景であったことだろうか。イルクーツクの先、タイシェトでシベリア鉄道をおり、タイガの密林地帯を移動した。
『65㎞地点で降ろされたんですが、そのまま40㎞歩かされたんです。真夜中の道ですよ。疲れ果てて倒れたら、そのまま凍死ですよ。それを分かっていても、若い兵隊の中にはもうどうでも良くなって倒れるものがたくさんいましたよ。それをソ連兵が見つけると、銃で殴りつけていました』。
 たどりついた収容所の名は、そのまま『105㎞収容所』と名付けられていた。45年11月3日であった。
『人の気配も、動物の気配もない密林地帯です。そこでバム鉄道の建設に当られたのです。4年間ですよ』。

満州にいた60万人の日本人青年が、捕らえられ強制労働に駆り立てられた。
『私はね、農家の出身だから仕事も、他の人より要領よくやれたんですよ。でもね、1日350グラムのパンではね、脚気になるんですよ。春に、アイヌネギ・山菜・キノコを一生懸命食べるんですよ』。6月まで雪が降り、8月の末には初雪が降るのがシベリアである。
 絶望し、自殺や逃亡する者が出た。栄養失調で、死亡する者は続出した。福岡正雄は、日本人学校へスカウトされ、ソ連の社会主義教育も受けた。
『小学校しか出ていない私にもね、そこで受けた経済の勉強は、後に日本で会社を経営する時に随分と役に立ったんですよ』。
 勤勉に働けば、ハラッシュオラボーターとなる。すると、ハガキがもらえた。勿論日本へ便りを書いたが、返事は一度もこなかった。便りは、ただの一通も届いていなかった事になる。家族は、残された満州でどうなったのであろうか。

 福岡家は、比較的幸運な一家ではあった。正雄を含め9名家族のうち8名が、結果的に日本に辿りついている。しかし、発疹チフスの死亡者の中に、正雄の父助四郎が含まれている。46年10月9日生き残った人々は、博多の土を踏んだ。
『日本に帰ったら、警察に取り調べを受けましたよ』



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