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   岩崎スミさんの逃避行Ⅰ
                                        

  
中華人民共和国黒竜江省                                                                                
 
 
     〈現在の牡丹工駅。北側の建物 2004 8〉

    
     
            〈当時のスミ先生姉妹〉

 
        〈ハルビンにある旧桃山小学校の校舎〉

 
       〈ハルビンにあるロシア正教会 2004 8 〉


 
      〈ハルビンのホテルで体験を語るスミ先生〉

  
 
    〈桃山小学校に一時避難した君島さんとスミ先生〉
 


   ハルビンから瀋陽奉天へ

 不安な夜が明けた8月11日、天候が回復した。この日の夕方、一行は再び避難列車に乗り牡丹工から哈爾濱(ハルピン)を目指していく。
『避難列車の中で、自殺する人を目撃しました。 軍人の奥さんのようでしたが、子供を殺しそのあと自分も刃物で命を絶ったのです』。

 哈爾濱(ハルピン)駅に到着したのは、麻山事件の当日である翌12日であった。
『母のキヨと、兄の勇の消息は分かりません。2人とも、麻山のあたりでなくなったのでしょうか。哈達河の開拓団を最後に出発した兄と母でしたが、北海道産の駿馬に乗っていたので、いつの間にか先頭に進んだのでしょう、自決した第2集団ではなく、戦闘に巻き込まれた第1集団にいたようです。このことは、後日道庁で聞きました。
 兄の勇は、ソ連軍と戦って負傷したと言わ
れています。母の消息は全く分かりませんが、兄と一緒だと聞いています。兄嫁と隣家の女の子も、一緒だと思います』。

到着した哈爾濱(ハルピン)で、再び不安な夜を迎える。
『哈爾濱駅のホームで、夜を過ごしました。引率した子供たちは、他の先生に桃山小学校に連れて行ってもらい、私たちはそのまま新京(長春)を目指すことになったのです。
 私の兄夫婦が、奉天(瀋陽)にいるのでそこを頼ることにしたのと、長春にある在満教務部に行って、退職金を貰うことになったのです』。

 その、長春も大混乱していた。

『役所で、退職金と沢山の食糧をいただきました。私が引率していた東安の女学生の中で、同じ方向に向かう生徒6名が私についてきていました。そこからは、それぞれ方向が違うので、ここで別れようということになりました。私は、長春から近い瀋陽(シェンヤン)の兄の所に行くので、一円も不要と思いその6名に、退職金と食糧の全てを渡しました。そして、みんなの無事を祈って別れたのです』。

 しかし、その瀋陽(シェンヤン)までの道のりも順調には行かなかった。
『普通なら4時間ほど(約300㎞)で行けるのに、なんと4日も掛かったんです』。既に8月15日は過ぎ、日本人をとりまく状況が一変していた。それまで、日本の横暴に我慢させられていた現地中国人の怒りが、爆発し始めていた。

 瀋陽(シェンヤン)を目指す列車は、
しばしば止まった。街中ではなく、必ず荒野の中で・・・・
『中国人運転手とグルになった現地人が、私達に金品を要求するのです。少し走って列車を止め、金品をねだる事を繰返すのですよ。子供が盗まれることも、ありました』。

 単独行動となったスミ先生は、二人の民間人と列車内で同席することとなる。
『建設会社高岡組の高級社員と言う方で、朝鮮の国境の町安東を目指していました。腰の周りには、札束を巻いていましたよ。社員の給料を、運んでいると言いました。私は一文なしだったので、この方のお世話になりました。線路の脇で、ご飯を炊いて食べたりしました』。

4日を要して瀋陽(シェンヤン)の市街に、列車は入る。しかし瀋陽(シェンヤン)の駅に着いたら、日本人は殺されるという風評が流れた。3人は、走る列車から飛び降りることにした。
『イチ・ニ・サン・・・しかし私は、うまく飛び降りることが出来なかったんです。思い切り腰を打ってしまい、今も痛くなるんです。列車にそのまま残っていた日本人は、皆殺されたという話を後で聞きました』。まさに、命がけの逃避行である。

瀋陽(シェンヤン)の町も、混乱していた。兄の進は、不在だった。兄進は、警護隊に所属し情報を扱う部署に所属し、東安省の国境に出張中であった。東安省こそ、スミ先生たちがそれまで過ごした地域である。いまや、兄のその身分は危険以外の何者でもなかった。

『町なかに、兄を指名手配するビラが貼られてあったんですよ』。日本人への報復が、本格化し始めた。スミは、髪を短く切り顔に炭を塗った。日本人の女と分かれば、強姦の対象とされる。実際に多くの女性が、連れ去られそして誰も二度とは帰って来なかった。
『夏でしたが、サラシを一反胸に巻き、胸の膨らみを隠しました。もんぺを、何枚も履きましたよ』。

その後、世話になっていた高岡組の社員が病気になり、スミ先生が街中に食べ物を求めることとなった。
『街角に、人だかりが見えたんです。人だかりの真中にソ連兵がいて、何かを中国人に売っているのです。それは、日本人の和服でした。・・・強奪したものであろう・・・ひどいなあと思った瞬間、私はそのソ連兵と目が合ったんです。すると、その兵隊が私に駈けより、いきなり私を軍靴で蹴り上げたのです。そして手が伸びてきた瞬間、私は持っていた財布も手に入れた食べ物も全て放り投げて、脱兎のごとく全力で逃げたんですよ。 今思うと、その兵隊の身なりはひどいものでした。服の穴から、白い綿がぶら下がっていました。乞食のようなボロボロの軍服に、機関銃だけが立派でしたね』。

 その後、スミ先生は更に髪の毛を更に短くしていく。

『そして更に、青剃りにしました。ソ連兵は、青剃りを嫌がりましたから。先頭をきる最前線のソ連兵の多くが囚人だったので、青剃りはその囚人を連想させるのでしょう』。

先の高岡組の男性が、兄進が現れるまでスミ先生の面倒を見てくれたが、兄畑 進は10日ほど経って、スミ先生のもとに現れた。兄畑 進には、妻と幼子がいた。瀋陽(シェンヤン)の北側にある北陵(清王朝の墳墓)の近くの平成街に、旧関東軍の軍人官舎が残り、そこに兄夫婦の住居があった。

ここで、スミ先生と兄親子が冬を越す事にした。生きていくには、働かなければならない。電柱に、教員募集のポスターが張ってあり、直ぐに日本人小学校の、先生の職につくことができた。奉天北陵在満学校である。しかし物価は、うなぎのぼりであった。

『月給は、800円でした。一升の米が、100円もしたんです。哈達河での給料は、高給だったのですが月45円だったんです』。
 職にあり付けたとしても、治安は悪化したままだった。

『毎日直ぐに逃げられるように、服を着たまま寝ていました。そして兄が、不寝番をしてくれていました』。

ソ連兵の、強姦事件は後を絶たなかった。就寝中も『山・川・サクラ』などと合言葉を決めて、避難する道を決めていたという。
『ある日、やっぱりソ連兵がやって来ました。サクラの合言葉に、逃げようとしたのですが、兵隊にライトを照らされ追いかけられました。相手は兵隊ではなく、将校ですよ。身なりが、きちんとしていましたから。走りました。足の付け根がはずれるかと思うほど走りました。通りにあった石炭箱の中にもぐり込み、息を殺しました。通り過ぎる軍靴の音を、今も覚えています』。
 ソ連兵にとっても、強姦は重罪である。
『北陵に、ソ連兵の処刑を見に行った事もありますよ』。


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