HOME〉Manchuriar                                              Manchuria >2002-2005



            
   麻山事件 Ⅴ 岩崎スミ先生
 
                                       
  
中華人民共和国黒竜江省                                                                                
   
  
                〈西側から事件現場を望む。現在でも未舗装の道が印象的である。  2004 10〉
                                 
   
    
     〈思いを語る岩崎スミさん 2004 8 ハルビンで〉

    

  

        
            〈1941年のスミ先生〉
      
    〈スミ先生はいつも明るい。2004 8 フーシュンで〉


   
  
         〈1999年 青竜小学校を訪問した〉


 
    〈事件現場に岩崎先生が建てた碑 2004 10 〉

 
  〈麻山の集落 2004 10撮影 
          この時は日本人との接触が禁じられていた〉

 

            〈事件現場 2004 10〉


『あの子達には、生き延びていく力があったんです。子供たちは、野
性のリスやバンビのようでした。
子供たちの中には雨が降ると、靴もはかずにはだしの子もいましたね。
 哈達河(ハタホ)の土地は、ぬかるみがひどくつて靴なんて履いてもドロドロになって、使い物にならないんです。だから足の裏だって、堅くなっていました。子供たちは、どんな草が食べられるか食べられないかも知っていたんです

 こう語るスミ先生は、麻山の事件で亡くなった子供たちのことを思ってこの60年を生きてきた。スミ先生とは、哈達河小学校(尋常高等小学校)の先生だった岩崎スミさんである。

 彼女の話にはいつも、聞くものを圧倒させる強い『思い』と『悔しさ』が込められている。麻山事件は、この岩崎スミ(当時 畑スミ 敬称略)を抜きには語れない。

 彼女の強い思いが、戦後政府を動かし中国残留孤児になっていた多くの教え子を日本に帰還させることに成功した。スミ先生は、とても質素な暮らしをされている。少しでもお金が溜まると、残留孤児になった教え子の所に送り、青竜の村にも寄付金を送りつづけてきたからだ。

満州へ

1924(大正13)年12月に現在のお住まいのある北海道由仁町に生まれた畑スミが、満州に渡ったのは昭和16年のことであった。
 北海道岩見沢市の職業学校を卒業して東京の美術大学へ進むことを考えていた彼女を、一年前に満州に渡っていた母キヨが迎えにきた。
 畑家は、前年の昭和15年に哈達河開拓団に参加している。北海道が、兄の畑 勇を哈達河(ハタホ)の北海道農法の指導員として引き抜いていったからだ。

 スミの父と母キヨも、兄勇に同行した。
『豊かな土地でしたよ。肥料がなくても、作物がどんどん育ちました。 兄たちは、未開拓地に北海道農法実験地を作っていました。150ヘクタールという広大な農場です。泥濘(ぬかるみ)のひどい土地でしたので、雨の日は私は馬に乗って通勤していました。自宅から学校まで距離も三里(12㎞)もあったんです。
 狼がいましたよ。恐ろしいのでマッチだけは、何時も持っていましたね。狼が、家畜の羊などを襲いにきましたよ。兄が、銃を持って家から出て行きましたね。
 雉(きじ)がとても多くて、毎日食膳にでてたくさん食べました。狼は本当に多いんです。麻山の遺体も、きっと狼が食べたことでしょう。狼だけではありませんよ、山には虎や豹だっているんです。
 虎は見たことはありませんが、鏡泊湖で豹は見たことがあります。
 近所の中国人も、素朴でした。心の優しい親切な人ばかりでした。夏になると、中国人の子供たちが素っ裸のままで私が珍しいのか、よってきました。
 どこに行くのと言って、私について着ました。人も亡くなると、風葬にしていました。白骨遺体に突然出くわして、驚いた事もありますね』

 何と、豊かな自然と素朴な人々であろうか。学校の様子は、どうであったろうか。

『学校まで遠いことと狼が多かったこともあって、殆どの子供は寄宿舎に入っていました。私も、寄宿舎に住み込んでいました。親を無くしたりして、貧しい家の子供もいましたね。朝早く教室に行って、貧しくて弁当を持ってこられない子供たちの机の中に、こっそりと弁当を入れていました』

 素晴らしい校長先生との出会いも、あった。先生の口からは、当時の校長であった高田先生の名前が数多く出てくる。
『非常に子供を愛した、素晴らしい先生でした』

こうして、充実した教員生活を送っていたが、運命の日は確実に近づいてきた。いったい、ソ連の参戦は予測できたのであろうか。

『分かっていましたよ。家に出入りしていた中国人の警官が兄を相手によく話していました
 20年の春頃から・・日本に帰ったほうがいいよ。ソ連との国境に、毎日のろしが上がっている。関東軍が次々と沖縄方面に引きぬかれていくのを、連絡しているんだ。今日は何百人という感じで、もうじきソ連軍が攻めて来るよと・・・・』

ソ連参戦の日、スミ先生が哈達河(ハタホ)に不在だった事は、よく知られている。
『東安(現在の密山)で、四泊五日の研修会に出席していました。各校一名ずつの、女子教員が集められていました。
 当初音楽の研修会と聞かされていましたが、行って見ると手旗信号や無線の訓練をさせられました。
つまり、軍事訓練だったのです。
 最終日の朝、キーンという金属音とともに、ソ連軍の飛行機がきました。
 飛行機から何か白いものが落ちてきました。それは爆弾ですよ。たちまち火の手が上がったのです。
 戦争が始まったと、直ぐに分かりました。鉄橋は破壊され、列車も不通になりました。もう家へは戻れないだろうと、思いました。
 大勢の女教員の中からどういうわけか、私が東安女学校の校長先生に50名ほどの生徒と職員の家族の避難の引率を命じられたんです』

 スミ先生たちは東安駅に急いだ。
『東安駅で兵隊たちから、自決用の手りゅう弾を渡されました。 でも、戦争なんかで死ぬものかと思いましたね』

 真っ暗な夜、東安の町は燃えていた。駅も、大混乱していた。市長は9日午前11時、退去方針を各機関代表に告げた。東安市には、一般日本人9000名、軍家族600名が居住していた。
 市長命令は、軍家族と一般日本人5000名がまず列車で避難し、10日午前一時を期して、日本人はひとり残らず退去することであった。

 軍は最初から、邦人の保護は頭になかった。

 8月6日にソ連側の動きを察知して、満鉄と軍でソ連が侵攻した場合の邦人輸送の方法を、東安駅でも日本軍と満鉄の上層部が内密で協議している。事前に開拓団員に報せていれば、被害は少なかっただろう。しかし事前に行動すれば、現地人が不穏な動きをするという発想もあり、ソ満国境の一般人は、見捨てられた『棄民』とされていた。

 国家も軍隊も、開拓団を見捨てた。軍人家族の一部だけが、いち早く家財道具を持って日本に帰還している。

   逃 避 行

『避難列車が発車したのは、8月10日の午前1時ころでしょうか 仏壇を抱えたおばあさんが、いました。踏み潰されている赤ん坊が、いました。車両は、屋根のない石炭を運ぶための車両です』

 この列車が、東安からの最後の避難列車となった。このあとの第12次避難列車は、発車することが出来なかった。
 翌8月10日午前9時20分、突然駅構内で大爆発が起こり、避難列車は車両ごと爆風に吹き飛ばされてしまった。
これが、約800名が死亡した『東安駅爆破事件』である。

 東安駅は、すでに避難する日本人であふれんばかりであった。スミ先生の乗った屋根のない無蓋車が、東安駅から出た最後の避難列車であった。『家財道具を乗せなければ、まだまだ多くの人々が乗れたのです。物よりも、人命を優先すべきなのに・・・』

 このすし詰めの列車が駅を離れると、次々と駅や施設に火が放たれた。ソ連軍に、使用させない目的であった。暗闇の中で、阿鼻叫喚が繰り広げられた。

『爆破事件』に巻き込まれる列車は途中で手を差し伸べる人々を乗せて、やっと 東安駅にすべり込んだ。人々の中には、寝間着のままの物もいた。
 人々の期待は、軍都といわれる東安に着けば、日本軍が守ってくれると信じたが、すでに多くは撤退し重要な施設には火が放たれていた。
立ち上る炎と煙が、東安や満州国の終焉の姿であり、長い8月9日が終わり10日に移りつつあった。

 国境守備の要の東安には多くの軍隊が駐屯して、駅には軍専用のプラッホームがあった。虎林からの最終列車はこの東安駅でも最終列車になり、機関車の整備や出発の準備で発車に手間取った。
 南方の日本軍へ武器や弾薬を補給移動させる作業が続き、軍専用のプラットホームには弾薬が野積みにされていた。

 その弾薬が、突然爆発した。多数の死傷者を出す大惨事となった。黒咀子開拓団だけでも、死者526人・行方不明236人とされている。
 爆発の原因は、ソ連軍の爆撃でも砲撃でもなく、関東軍が山積みになっていた砲弾をソ連軍に手渡す事を惜しみ、自らの手で火を放ったに過ぎない。関東軍は、開拓民らの人命よりも『砲弾』を選んだのである。国家も軍も、開拓民を盾として、軍はわれ先に退却していた。

 スミ先生の列車は、夜があけると哈達河(ハタホ)開拓団の最寄駅である東海駅にたどり着いた。しかし到着と同時に、30機ほどのソ連機が機銃掃射を始めた。逃げ惑う人々。撃たれて倒れる人を目のあたりにする。

『一緒に避難してきた女教員は、私と並んでいて頭を撃ち抜かれてしまいました』スミ先生は、車両から飛び降りた。

 開拓団の人々は、子供たちは、そして家族たちは・・・そのソ連機の空襲の中で、顔見知りの女性と出合った。
『四国出身の、前原さんの奥さんでした。もうみんな避難して、誰もいないと言うので。そして、前原さんたちお2人に東安から乗ってきた列車に、再び引き上げられました。 列車は、その瞬間発車しましたよ』

 再び、最終列車の人となった。その時、スミ先生の母と兄勇は、まだ開拓団に残っていた可能性がある。
『父は昭和16年に病死していますが、母と兄はこの日の正午ころまで開拓団に残って、私の帰りを待っていたとあとで聞きました。貝沼団長に促されて、最後に開拓団を出たらしいのです』

 その後ソ連軍機に空襲されながらも、避難列車は西に進んだ。
『線路脇の道には、避難する日本人が溢れていましたね。その中に、家族や子供たちを捜したんです。広野を老人・子供を連れた人々の行列が、延々と続いていました。涙が、止まりませんでした』

 なんと、悲しい光景であろう。列車は、10日の夕方に牡丹江に到着した。いったんは、牡丹江女学校に避難したものの、空襲は激しく一行は中心街から離れた『牡丹江神社』周辺に移る。
 その頃から、雨が降り出した。全員がずぶ濡れになる、激しい雨であった。

 
   
           〈事件現場を西側から眺めたもの。鈴木幸子さんが、水を飲んだ小川が流れている。 2004 10〉 

                          BEFORE〈〈    〉〉NEXT
                          
inserted by FC2 system