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   岩崎スミさんの逃避行Ⅱ
     
                                   
  
中華人民共和国黒竜江省                                                                                
 
 
   〈ハルビンから瀋陽まては大畑作地賀続く 2004 8〉

 
        〈瀋陽一の繁華街「中街」 2004 10〉

       
             〈当時のスミ先生〉

 
      〈鈴木さんと滝沢さんと自宅で 2003 8 26 〉


 こうして、昭和21年の春を迎えた。

『ある日、突然帰国命令が出ました。明日、日本に帰れと言うのです。持っていたもの全て捨てて、日本に向かいました。5月19日に瀋陽(シェンヤン)を出て、6月10日に日本に着きました』。

兄の畑 進は、帰国できなかった。前年の秋に、部下に迷惑がかかるからと自らソ連軍のもとに出頭し、シベリアに送られた。クラスノヤルスク周辺での強制労働に、数年間を費やすこととなる。
『いったんは、死んだと見なされて、死体捨て場の穴に捨てられたのですが、その瞬間に息を吹き返し、再び拾い上げられたそうです』。

哈達河(ハタホ)開拓団の消息は、聞こえていた。
『全滅したらしい』と言うものだった。しかし、スミ先生は信じることが出来なかった。事件の全貌が、少しずつ分かるに従い、
『なぜ、開拓民は死ななければならなかったのか?国家のためそして軍のために、必死に食糧増産に励んでいたのに。なぜ、子供たちが殺されなければならなかったのか?しかも、守ってくれるはずの大人たちに・・・』。次々と、疑問が湧いてきた。

 そして同時に、生き残っているに違いない教え子たちを捜し始めた。スミ先生は、既に触れた1980年の中国行をはじめに、何度も現地に足を運んでいる。また、日本に戻れば子供たちの供養のために『四国八十八箇所徒歩巡拝』にも、6度旅立っている。
『四国のある寺真言密教の総本山善通寺で、こう言われたことがあります。あなたの背中に、大勢の子供たちが見える。その子供たちは、血だらけの姿ですよ。あなたは、親兄姉村人の最期を知りたいと、冥福を祈って廻っていらっしゃる。子供をそんなに大勢背負って、辛い事だろう。寺で預かってあげよう。・・と』。

 スミ先生は、2004年5月30日放送のHBCラジオドキュメンタリー『落日の丘』の中でも、はっきりと言っている。
『日本の国策に、殺されたんですよ。満州に無理やり国民を呼び寄せて置きながら、いざ邪魔になったらさっさと国民を捨てたんです。国家と軍隊は、何のための存在なんでしょう』。

 スミ先生は、同時に現地の中国人たちに感謝の気持を持っている。

『中国人は、自分たちも食べていくのがやっとなのです。高粱かゆだけの、質素な暮らしです。その苦しい生活の中で、私の生き残った教え子を育ててくれたのですから、養父母たちには、本当に感謝しています』。

その姿勢を、当地の麻山や青竜の村人たちは理解してくれている。スミ先生が訪問するたびに、盛大な歓迎式典が準備されてきた。スミ先生は、予期しない熱烈な歓迎に戸惑うことも多かった。
『麻山に行くたびに、私は元気を貰って帰ってくるんです。現地の人も、麻山に一度来るとそのたびに寿命が延びるといってくれます』。

 スミ先生の姿を見ていると、多くの亡くなった子供たちの霊が、彼女の背中を押してくれているように思える。

 死にたくなかった子供たちのことを一番理解しているのは、スミ先生に違いない。彼女はいつも私たちに、
『教え子を失ったという悲しい事実』以上のことを、教えてくれる。
それは、『生きていく事』に他ならない。




   
      〈ハルビン市内を笑顔で歩くスミ先生〉
  


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