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                 ムガル帝国の遺構 
  
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   タージマハルの原型となった「フマユーン廟」。建物はもちろん前庭のペルシャ式庭園が素晴らしい。正方形の四分庭園をチャハルバーグ
  と呼び、現地では、「フマユーン廟」よりも「チャハルバーク」と呼ぶ方が、一般的のような印象を受けた。デリー市内の地下鉄駅から
  オートリクチャーで簡単に行くことができる。入場料は高額で250RS。人気スポットのため観光客で溢れていた。2014 12 29撮影。


  
  

  13世紀、最初のイスラム王朝の奴隷王朝スルタンクトゥブッディーン
  アイバクが建てた戦勝記念碑が下の「クトゥブミナール」

          
 塔の高さが73メートルあり、現在のデリー観光のハイライトになっ
 ている。デリー中心から15キロ南にあるが、地下鉄とオートリク
 チャーで簡単に行くことができる。入場料250RS。

 
   「プラーナキラー」。復権したフマユーンが使用していた都城跡。

 
  
フマユーンが1556年1月24日に転げ落ちたとされる八角形の
 図書館。プラーナキラーの中にある。

 
 ファテープルシークリーも、イスラムヒンドゥー文化の傑作である。
 イスラムとヒンドゥーが政治的にも文化的にも見事に調和して
 いると言える。写真のディーワーネ・ハース(内謁殿)'は皇
 帝の私的な謁見のための建物。

 
 
  ファテープルシークリーでのイスラム的風景。2015  1 4 午後 

 
 誰もが訪問するタージマハル。建造物はもちろん、前庭の 
 チャハルバーグもその美の頂点に位置する。この季節は連日霧
 がかかる。まったく姿が見えない日もあるという。
 比較的午後は晴れる。    2015 1 4 午前


 

 
 インド世界を代表するかつての帝国は「ムガル帝国」である。その版図も堂々としたものであるが、インドイスラム文化を花開かせことにより、現代にもその素晴らしい遺構が各地に残されている。できる範囲でまとめてみたい。

ムガル帝国建設の祖は、バーブル(虎の意)である。彼は現在のウズベキスタン東部のアンディジャンに1483年に生まれている。彼の征服欲は中央アジアの宝石「サマルカンド」に向けられていたが、願いかなわず彼の軍は南東に向かった。

 初代バーブル 2代フマユーン

当時のインド世界は、すでに新興著しいイスラム勢力による征服王朝が興亡を繰り返しており、同じイスラムのバーブルが1526年新たな征服王朝の頂点に立ったことになる。
 47歳でこの世を去ったバーブルの後を継いだのは、22歳のフマユーンであった。温厚で学者肌の彼は政治や戦争を得意とせず10年後には、他の勢力から駆逐されてしまい実に15年間も現在のアフガニスタンなどで砂漠での流浪生活を送ることになる。
 この時期に彼はペルシャのサファビー朝に接近し、イスファハンなどのペルシャ文化に大きな影響を受けた。後にインド世界にペルシャ文化を大量導入することになる。
 フマユーンは
1555年に復権し都デリーに返り咲くが、翌年プラーナキラーの図書館の階段で転落したことがもとで父バーブル同様47歳の若さで急死してしまう


       
    3代アクバル   4代ジャハンギール    ヌールジャハーン

 急逝したフマユーンの後を継いだのは
13歳だったアクバルである。3代目君主アクバルは、この帝国唯一の「大帝」の称号を得ているだけあり名君として実に50年の長きに渡ってこの国を治め同時に大国に押し上げた。アクバルとは「アッラーアクバル」のアクバルつまりイスラム世界では「偉大」という意味である。名実ともに偉大な皇帝と言うことになる。
  
 1556
年に帝位を継いだアクバルは、1565年に帝都アグラのアグラ城を改修しここを居城としたが、1571年近郊に有名なファテープルスィークリーを建設し、1574年から1588年の14年間ここを都として使用している。その後ラホールに遷都し1598年再びアグラに戻っている。このように元来遊牧民出身の彼ら一族は、移動生活を基本としていることがここから伺われる。

 しかしアクバルを大帝ならしめているのは、その政治的手腕であろう。インド世界の基本は「ヒンドゥー」である。新興勢力であり同時に少数派のイスラムが支配者として継続するには、強力な軍事力はもちろん人頭税の廃止に代表される弾力的なヒンドゥー教徒への「融和政策」が不可欠である。柔軟な頭脳と彼の人格が、帝国をアジアの大国に成長させたと言える。
 

 政治家としては天才であったアクバルだが、父親としては不遇であった。特に跡をつぐことになる
4代ジャハンギールとの不和は名高い。アクバルは、酒色と麻薬に溺れがちな愚息ジャハンギールに幾度も命を狙われている。
 1605
年ジャハンギールは即位すると、父が進めてきたイスラムヒンドゥー融和政策を改め、イスラム優位政策へと走る。父アクバルとその政策をイスラムへの裏切りと捉えた安易で短絡的な政策である。
この政策によりさらにペルシャ人が重用され、ペルシャ人の妻ヌールジャハーンが政務を執ることになる。

     
   ムムターズマハール     5代シャージャハーン    6代アウラングゼーブ

 162758歳で逝去したジャハンギールの後を継いだのが、タージマハルで有名な5代シャージャハーンと言うことになる。彼は帝国のもっとも安定した時代を築いたが、1658年に三男アウラングゼーブにアグラ城に幽閉され帝位を奪われてからは、166674歳で死去する悲劇の皇帝である。タージマハルの名の元となる妻ムムターズマハルは、36歳の1631に第14子を産んだ直後に産褥死している。

シャージャハーンはこれを嘆き悲しんで、国力が傾くほどの資金をかけて「タージマハル」を建設したというのが、逸話になっているが。シャージャハーンはそれほど軟弱で感傷的な人物ではなく、政治的な手腕も高く戦争にもたけた武人だったと言われる。現にムムターズが亡くなった後の30年間も、多くの後宮を持ち決してムムターズの思い出の中で生涯を終えたわけではなかった。
 大建造物「タージマハル」も、イスラム教徒の精神的中心となる「聖者廟」という政治的な意図で建てられたと言える
 

  

     
               巨大な「アグラ城」。入り口になる「アマルスィン門」。  入場料250RS  2015 1 4 午前

   
  デリーの「ラールキラー(レッドフォート 赤い砦)」。1648年完成。5代シャージャハーンが建設しアグラから遷都。ここにも彼の政治的野望が見える。
                                                                         2015 1 7

   
    この国最大のモスク「ジャマーマスジット」。1656年完成。これもシャージャハーンが建設した。巨大建造物を立て続けに建てた彼の意欲は
    どこから来るのか。 霧が姿を隠していたが突然晴れてきた感動の瞬間。 2014 12 29 午前
    

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