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   香港攻略戦の悲劇Ⅱ
                       
中環セントラルと赤柱スタンレー


  
中華人民共和国香港特別行政区                                                                             
     
     
             旧九竜駅前にある時計台に日本軍が迫る。右は現在のもの。2010 12 28〉
 
 
         (北角のホテルから九竜半島を見る) 
   

   
    〈日本軍が上陸した北角での戦闘〉〉 

         
       〈中環の和平記念碑と香港立法局〉
 
   〈立法局の建物には銃弾の跡が数多く残っている〉

 

    〈香港上海銀行前の銅獅子 2010 12 27) 

 

  〈当時のスタンレー要塞 下は現在のスタンレー半島〉
 ) 

九竜半島陥落

こうした日本軍の予想外の展開に英軍は総崩れとなり、九竜半島から香港島に敗走して行った。そして1213日までに日本軍は、九龍半島先端の尖沙咀(チムサーチョイ)を制圧した。
 その九竜半島南端に、「旧九竜駅跡鐘楼」と名付けられた時計塔が現在も建っている。現在観光客で賑わう「尖沙咀スターフェリー」乗り場のそばである。駅そのものは移動してしまったが、その時計台の基部には弾痕が現在もしっかりと残っていた。

 日本軍が九龍を占領すると香港島の英砲台から、たちまち猛烈な砲撃が加えられた。それらは九龍の市街地に雨あられと降り注ぎ、地元住民にも死傷者が続出した。
 13日、九龍半島の貯水池から香港島への給水が断たれた。この給水問題がのちに英軍降伏のポイントとなる。また14日から日本軍は香港島へ向けて砲撃を開始し、3日間で2,000発の砲弾が撃ちこまれた。

 香港島上陸

香港島は東西12キロ、南北11キロ、知られていないが島の大部分は複雑な地形の山塊である。香港島への上陸作戦は、1218日夜から19日未明にかけて行われた。九竜半島と香港島を隔てるヴィクトリア港は平均幅2キロ、最短地点では幅400メートルの海峡である。
 このもっとも狭い海峡部分の香港島側に北角
(ウエストポイント)の町が、広がっている。今回利用したホテルは偶然にもこの「北角ノースポイント」にあり、8階の部屋の窓からは日本軍の上陸地点が眼下に広がっていた。この奇襲上陸は、闇にまぎれてほとんど気づかれなかったという。

上陸部隊はまず島の北東部「北角」を占領し、次に西方にある現在の香港島の中心部「中環(セントラル)」地区に鉾先を向けた。英軍は峻険な地形を利用して頑強に低抗し、予想外の激戦となった、
 現在の香港の政治経済の中心中環(セントラル)地区には、当時の激戦を偲ばせる建造物が残っている。香港の国会議事堂にあたる「香港立法局」である。当時は「高等法院」として利用されていたが、日本軍が押し寄せた西側の壁には現在も夥しい銃弾の跡が残っている。
 占領後日本軍はここに「香港憲兵隊本部」を置き、憲兵隊は占領の38か月香港住民の上に悪政の尖兵として君臨していく。鬼と恐れられた野間憲之助憲兵隊長は、戦後すぐに戦犯容疑者として市中を引き回され処刑されることになる。

この建物の北側には、「和平記念碑」という2つの世界大戦の英連邦兵士の犠牲者を追悼する碑が建てられている。「英魂不朽・活気長存(霊魂は永久に。生気はいつまでも)」という中国文と、「The Glorious Dead(名誉ある死)」という英文が刻まれている。
 また南側には、「香港上海滙豐銀行」本店がある。この銀行は香港紙幣を発行する3つの銀行のうちの一つであるが、その正面入り口にこの銀行のシンボル「銅獅子」つまりライオンの像が二体置かれている。大変に立派なものであるが、占領後日本はさっさと自国に持ち帰った。スクラップ寸前だったが終戦後連合国側に発見され、現在の元の位置に戻ったという歴史を持っている。現在の香港紙幣にも堂々と使用されている見事な獅子である。

1219日から20日にかけて戦闘は、さらに激戦となった。英軍は頑強な抵抗を続け、日本軍は複雑な地形と堅固なトーチカ群に遭遇して各地で前進を阻止させられた。特に20日香港島中央部の黄泥涌峡谷・ジャーディン山・ニコルソン山の要塞を攻撃した日本軍は、これを占領したものの死傷者は600名に及んだ。

  悲劇の半島「赤柱(スタンレー)

九竜半島からの砲撃が及ばなかった香港島南部の「赤柱(スタンレー)半島」も、同様であった。赤柱半島は付け根がわずかに250メートル縦深3キロに及ぶ半島で、海岸砲台や高射砲陣地を備え1500名が守備する要塞であった。日本軍は最後まで攻略することができず、焦った日本軍兵士によって悲劇も起こっている。

私はこの「赤柱(スタンレー)」に向かった。香港島の中心部「中環(セントラル)」からは、数多くの路線バスが出ていた。二階建てバスは急峻な海岸道を縫うように走り、同じ二階建てバスとすれ違う時はスリルがある。美しい海水浴場を巡り30分ほどで辿り着いた。
 現在この「赤柱(スタンレー)地区」はお洒落な店が立ち並び、香港島のリゾート地として人気スポットになっている。私が訪問した日も、多くの観光客が押し寄せていた。

 私は観光客とは逆方向に進み、まず「赤柱監獄」にたどり着いた。ここは日本軍占領後「赤柱捕虜収容所(スタンレーキャンプ)」となり、捕虜となった連合軍兵士はもちろん連合国側一般住民3,000名も一緒に収監された場所である。その後戦局悪化とともに食料の欠乏が始まり、同時にマラリア赤痢の流行で多くの死者を出している。

 そこから5分ほど北側に進むと、「野戦病院で起きたクリスマスの惨劇」で名高い私立学校「聖士堤反書院(セントステファン中学)」に辿り着く。今は平和なこの学校も、「十八日戦争」の時は臨時野戦病院として160名の負傷兵と7名の女性看護師がいた。そして25日突入してきた日本兵によって「ベッドにいた負傷兵の大半が銃剣で殺害され、7名の看護婦は全員が強姦されうち3名は殺害された」と、戦後カナダ人牧師による証言が記録されている。私は校門でそっと手を合わせた。

私は道を聞き南側に15分ほど進んで、「赤柱軍人墳場(スタンレー軍人墓地)」に向かった。ここは英本国籍の軍人と、赤柱収容所に収監された民間人の墓地である。墓石を見ると「十八日戦争」の時の戦死者はもちろん意外と多いのは、収容所生活中の死者と1945116日に実施された米軍空襲による犠牲者であった。なんと無念のことであったことか。
 現在この墓地は美しい芝生が敷き詰められ、手入れも行き届いている。デートコースや写真撮影会のメッカとして有名らしい。私が訪問した1227日は平日にも関わらず多くの人でにぎわい、ウェディングドレス姿の撮影が行われていた。

  ■赤柱スタンレーへの行き方
 香港中心部中環などから路線バスがでているが、やはり中環のバスターミナルからが一番便利。10香港ドル程度である。

  
    
      〈二階建てバスがすれ違う時はスリルがある)                  〈現在の赤柱スタンレー監獄 2010 12 27)  

    
       (現在のセントステファン中学の正門〉
                        〈赤柱スタンレー軍人墓地)  

    
   (多くの連合軍捕虜が飢えに苦しんだ 香港歴史博物館で〉            〈赤柱スタンレー軍人墓地での撮影会)  

   
         (米軍の空襲で亡くなった方が意外と多い〉                〈赤柱スタンレー半島は島の南端にある)  

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