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   香港攻略戦の悲劇 Ⅰ
                           
ジンドリンカーズライン


  
中華人民共和国香港特別行政区                                                                             
     
   
              「若林隊占領」の文字が残るトーチカ 2010 12 28   右が若林東一中尉〉
 
 
          (現在の城門貯水池) 
 

 
    
  
    〈赤い線がジンドリンカーズライン〉〉 

 
        〈平日でも路線バスが走っていた〉
 
 
   〈いきなりヘリコプターの不時着に遭遇してしまった〉

 

     麥理浩徑第6段」の入り口   

 
       〈やがて341高地の山頂が見えてきた) 

 

   〈Regent Street Shaftesbury Avenueの交差点) 

 

     〈341高地山頂にある英軍司令部トーチカ) 

太平洋戦争開戦時、日本の攻略目標の一つにイギリスの「東洋の牙城」香港がある。この香港が激しい戦場となり、その後38カ月日本の占領下におかれ多くの犠牲者が出たことを知る人は少ない。年間300万人と言われる日本人観光客に至っては、このことを意識する人は皆無なのではなかろうか。忘れてはならない戦争の悲劇が、「観光地香港」にもある。
   香港攻略戦 ジンドリンカーズライン

 イギリスによって早くから要塞化がすすめられていた香港は、英領の香港島とその対岸にある租借地の九龍半島からなり、香港島の北側斜面には九龍に向け200以上の砲を据え、食糧・弾薬の貯蔵も充分であった。英軍は、半年は持ちこたえるつもりでいた。
 真珠湾攻撃と続く宣戦布告と同時に、日本軍の香港への攻撃が開始された。攻略部隊は支那派遣軍2339000名 酒井隆中将)で、その主力はその後ガダルカナル島で悲劇的な末路を迎える岐阜愛知静岡県で編成された第38師団(23000名佐野忠義中将)であった

 イギリス軍は1936年には九龍半島中央部一帯に150のトーチカによる防衛線(ジン・ドリンカーズ・ライン)を完成させ、日本軍を待ち構えていた。日本側もこれを知り十分な砲撃作戦を準備していたが、結果的にこの防衛ラインは、簡単に突破されてしまうことになる。

 若林中隊の活躍

最初に突破口を開いたのは、第38師団歩兵第228連隊(名古屋 土井定七大佐)の第3大隊(岐阜 西山遼少佐)第10中隊である。中隊長は若林東一中尉である。
 129日夕刻、先遣隊として香港の水源地である「城門貯水池」を見下ろす峠にたどり着いた若林中尉は、その一帯の英軍陣地が手薄であることに気付いた。日本側の計画では、16日から重砲42門の砲兵隊(北島中将)の支援の下で総攻撃することになっていた。もちろん若林中尉も承知していたが、西山大隊長に意見具申し夜襲による攻撃を決心させてしまった。
 若林中尉はわずかの兵力で、英軍トーチカ陣地を手榴弾と白兵戦で次々と攻略していく。二五五高地のトーチカは、藤森伍長らが換気口に爆薬を挿入爆破して占領。望月少尉の第3小隊は地下道トーチカづたいに進んで100時過ぎには英軍司令部壕に突入し、守備隊長だった英第2ロイヤルスコット大隊の中隊長ジェームス大尉を捕虜にしてしまった。ジェームス大尉はまったく虚を衝かれ、日本軍の銃剣夜襲には「手も足も出なかった」と語ったという。
 ジェームス大尉らは、暑苦しい地下陣地が気に入らず日本軍の夜襲の時は配置に付いていなかったようである。トーチカと鉄条網があれば、「黄色い猿」の日本兵は攻めてこられないと人種的偏見を持ち、日本軍を甘く見ていたと言われている。
 なお軍の作戦計画から逸脱したこの西山大隊の行動は、軍命令違反か許される独断専行かで大きな物議
を呼びんだ。当初激怒した佐野師団長も結果的にはが追認し、香港島陥落後には「感状」まで授与されている。
 夜が明けて若林中隊長は、自分が立っている地点が九龍要塞で最重要の三四一高地であることを知ったという。眼下に九龍、香港市街が見渡せた。こうして英軍防衛ラインは、国境突破から2日足らずで日本軍の手に落ちたのである。

 現在の341高地

私はこの三四一高地を目指した。地下鉄網の発達した香港では移動が便利である。九竜半島西端のチュンワン駅まで地下鉄に乗り、そこからタクシーでわずか10分ほどで入り口の「城門郊野公園」にたどり着いた。
帰りの交通の便が気になったが、多くの車が止まり何とかなるであろうと考えた(頻繁にバスの便があり4.1香港ドル)
さっそく目的地を目指し歩き始める。ところが貯水池のダムの堤防に人だかりができ、テレビカメラがずらりと並んでどこか物々しい雰囲気。「あっ」。ヘリコブターが、湖面に不時着しているではないか。その後新聞テレビを拝見し、事の次第が分かってきた。前夜(20101227)近辺で山火事が起こり、ヘリコブターが消火作業に出動した。この貯水ダムの水を掬おうと試みたところでエンジンが故障してしまい、そのまま湖面に不時着した。機長が判断よく対応し、計3名の乗組員は無事湖岸に泳ぎ着いたというものであった。
 私は先を急いだ。舗装道路を一キロほど南に進むと次々とバーベキュー場が現れ、行楽客で賑わっている。
 野生の猿も大勢繰り出して騒々しい。その片隅に「麥理浩徑第6段 MACLEHOSE  TRAIL  STAGE  SIX」という標識が現れる。これが現地では「城門要塞」と呼ぶトーチカ群への入り口である。
 車道が終わりここから、本格的な山道の急坂になる。計180段ほどの階段を上ると、コンクリートが現れる。
 これぞ「ジンドリカーズライン 酔酒湾防線」の一部である。山道と並行したり交差したりしながらトーチカ陣地が繋がっているわけである。  戦闘のあった70年前は、周囲は鉄条網が張りめぐらされ、視界をよくするため草や木は切り払われていたであろう。しかし、現在は樹木や草にその多くがおおわれている
 トーチカとそれをつなぐ地下道には、英軍がつけた名前が刻まれている。「チャーリングクロス」とか「シャフツベリーアベニュー」とか、いずれもロンドンの地名である。さらに進むと、Regent Street Shaftesbury Avenue と洒落た名が付けられたトーチカの交差点にでる。そこから50メートルほど進み、この Shaftesbury Avenueの上部南側から入り口を覗くと有名な「若林隊占領」と線刻が見える。「隊」の文字が旧字体で、まぎれもなく当時の隊員が刻んだものと思われる。大変な臨場感がある。
 そこから急坂を100㍍ほど上ると、「チャーリングクロス」と名付けられた三四一高地の英軍司令部壕跡にたどり着く。ここはさすがに展望もきき、下に先ほどの不時着ヘリコプターも見える
 周辺はハイキング客も意外と多く、人気の登山コースらしい。半島最高峰の大帽山(957メートル)も北に見える。
 このトーチカだけは、登山道にむき出しになっており、内部も意外と広く眺望も効く。129日午前1時ここにはインド人2名とシンガポール人の英国兵がいたが、若林中隊に手りゅう弾を投げこまれて死亡している。その手りゅう弾の痕跡が壁に残っている。
 ここから暗闇の地下道が50メートルほど続いていた。懐中電灯を持参しなかったことを後悔しながら恐る恐る下ると、会議室や休息室があり最後に大きな部屋に出る。そこには当時ジェームス大尉たちが使用したであろう炊事場などが並んでいた。ここにも日本兵が乱入し不意を突かれた英国兵たちが慌てふためいたことを思い起こすと、不思議な気持ちになる。ここで27名の英軍兵士が捕虜になったという記録もある。
 その後1211日、イギリス軍は香港島への撤退を発令した。開戦前日本軍は九龍半島の攻略に数週間を見込んでいたが、実際に開戦後わずか6日であった。日本軍の戦死22名、戦傷121名。英軍の遺棄死体165、捕虜49名と言われている

  ■城門貯水池への行き方
 香港中心部から地下鉄チュウェンワン線に乗り終点で下車。そこからタクシーで10分ほど。帰りは路線バスで50円ほどで、チュウェンワン駅に戻ることができる。登山道はしっかりしている。

  
   
      〈341高地からの眺め 左が香港最高峰の大帽山957メートル)                  〈野生の猿には注意)  

     
       (防衛庁戦史叢書の地図 341高地が分かる〉
               〈トーチカ内部に残る英軍の炊事場)  

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