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   香港攻略戦の悲劇Ⅲ
                       
    ブラッククリスマス


  
中華人民共和国香港特別行政区                                                                             
     
  
       東洋の真珠香港は三年八か月の恐怖政治を経験している。ビクトリアピークからの眺め。2010 12 27〉
 
 
         (現在のホテルペニンシュラ香港) 
  
       〈336号室で行われた降伏交渉〉〉 
      
    〈ワンチャイ地区を入場行進する日本軍〉
 
   〈発展する現在のワンチャイ地区 2010 12 28〉

  
  
      〈現在「礼賓府」となっている「香港総督公邸」) 
      
          〈茶の湯に興じる磯谷総督)  

 ブラッククリスマス 英軍の降伏

1221(24日説もある)日本軍はニコルソン山中で貯水池(黄泥貯水池)を発見し、たちまち香港市街は全面断水となった。同日、ようやく日本軍はニコルソン山の南北の線に沿って戦線を構築し22日イギリス軍を東西に分断した。
 1週閻後の25日、ヤング香港総督と英軍マルトビー少将が降伏を申し出た。香港市街の全面断水と香港島からの中国系住民の大量脱出が直接の理由となった。日本軍は、わずか18日間で香港攻略を完了したことになる。1841年南京条約で英国が香港を手に入れてちょうど100回目の記念すべきクリスマスは、こうして「ブラッククリスマス(黒色聖誕節)」となった。
 降伏の交渉は25日午後7時から日本軍が司令部を置いていたホテル、「ザペニンシュラ香港(香港半島酒店)」の3336号室で行われた。停電のためロウソクの火の元で行われたという。1928年にオーブンしたこのホテルは、現在も香港のトップホテルとして君臨している。94年に新館が完成し、団体日本人観光客も受け入れている。彼らはどんな気持ちで、利用するのであろうか。
 香港島における戦闘での日本軍は戦死700名、戦傷1400名。イギリス軍の戦死1500名、英軍捕虜は11000(英人5千名、インド人4千名、カナダ人2千名)とされている。

地獄の38か月「三年有八箇月」 日本占領時代

 日英軍の戦闘が終わり、多くの香港住民はひと時の安堵感を覚えたに違いない。しかしその後の日本統治は、彼らの予想を超えた「暗黒時代」となっていく。
 香港攻略戦で捕虜となったイギリス軍11000名は、香港内に設置された捕虜収容所へ抑留されたが、それらの中から数多くが日本、台湾へ移送され各地で強制労働をさせられている。

香港を統治することとなった日本は当初イギリス政府の香港政庁に代わり、酒井中将を長官とする「香港軍政庁」を設置し、その直後磯谷廉介中将を「香港総督」に任命して「軍政」を実施していく。総督は住民に対して「絶対的な権限」を持っていた。
 この磯谷廉介香港総督の使用していた公邸が、中環地区に現在も残されている。現在は各国要人が宿泊する「香港礼賓府」となっているが、英国の歴代総督も使用していた邸宅である。磯谷総督はここを日本風に改築し、放蕩淫楽の生活を送ったとされている。昼間は茶の湯夜は略奪品の高級酒による酒宴が連日繰り広げられ、多くの女性が出入りしていたという。

また日本軍による陥落直後、それまで潜んでいた犯罪組織が略奪や強奪などを行い治安が悪化した。日本軍の朝鮮人軍属も、略奪や強姦などを行ったとされている。しかし夜になると、日本兵によるこれらの行為も始まった。
 開戦時の香港の人口は175万、うち西洋人は2万。さらに大陸から1938年日本軍の広州占領39年深せん占領に伴い、夥しい数の家を失った避難民が流入してきた。
 すでに餓死者が路上に横たわり、交通の障害となっていた。この膨れ上がった難民と食糧問題そして治安の回復が、軍政権の最初の課題であった。
 食料の供給を考えると人口60万が限度と考えた軍政府は、「人口疎散政策」と名付けた強引な人口減政策を断行していく。当初は食料や路銀を提供して難民たちに大陸への帰郷を進めたが、のちに「乞食狩り」と呼ばれる人間狩りが行われていく。これは路上生活者を憲兵隊が捕えて、無人島や敵地の海岸に遺棄する乱暴なものである。最終的には、船に乗せ海にそのまま捨てられたといわれている。

更に軍政府は、香港の全ての「金融物資の差し押さえ」を開始した。真っ先に実施されたのは、香港住民の保有するすべての自動車そして食料の差し押さえである。米穀商などは、真っ先にすべての財産を失っている。軍政府に従わないことは、直接死を意味していた。
 また香港ドルに代わる貨幣として、悪名高い「軍票」を大量に発行していく。「軍票」は通貨の姿をした徴発票である。これが香港経済に深刻なインフレを引き起こすことは有名であるが、香港ドルを保有していることが知れるとそれは即刻憲兵による「死」へとつながり、香港市民は恐怖に震えた。発行されたこの軍票は、日本の敗戦に伴い無価値とされ、現在も日本に経済的補償を要求する香港人も存在していることはよく知られている。またイギリス系企業や銀行が営業を停止し、貿易が完全に停止したために香港は経済的苦境に立たされる。

日本軍政府は、英語の使用を禁止し代わりに日本語の使用を指導した。また、先のペニンシュラ・ホテルを接収後「東亜ホテル」と改称して総督府を設置したほか、「ネイザンロード」のようなイギリス式地名を「香取通り」のような日本式地名に改称していった。
 結果的にその後香港からは70万人前後の中国人住民が中国本土に退去し、19458月の終戦時には軍政府が目標としていた人口が60万人程に減少している。しかし餓死者は日常の光景となり、犬猫は食用として真っ先に姿を消し、連れ去られた子供や餓死者の肉が食用として売られていることが噂されるようになっていく。この38ヶ月間にわたる日本統治時期を香港では、「三年零八個月」と呼んでいる。

  
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