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     一木支隊の全滅Ⅲ
                           水野 護さん 

 
 ソロモン諸島                                         2010年4月特別取材                           
 
         
           〈当時の水野護さん〉    〈NHK「兵士たちの戦争」で語る水野さん 私にとってはどうしても会いたかった方である)                   
 
   
        〈やさしく語る水野さん 2010 4 19〉

    
        
        
           〈第1小隊長 荻生田少尉)


      
         〈第2小隊長大橋少尉〉

      
          〈第3小隊長田中少尉〉
 
 
 一木支隊(歩兵第28連隊)の飛行場への「総攻撃」は8月21日の午前3時頃とされているが、すでに20日の深夜には米軍の激しい攻撃を受けている。
「攻撃の夜、米軍の上陸した海岸で(レッドビーチ)で夕食を取りました。話をしてもだめです。音が出さないように、そして持っているもの全て食べろと言う命令でした。月が沈むのを待っていました。真っ暗になってから攻撃ですよ。月が海の地平線に沈むのを見ていました」。

そう語るのは、水野護さん(北海道湧別町)である。
「実は攻撃の夜、現地人が捕まえられたんです。10人くらいいたと思います。各中隊に、二人ずつ割り当てが来たんです。処分しろというんです。殺せとは言いません。銃剣で殺されるのを見ていました。その時のうめき声は、忘れられません。今思い出しても涙が出てきますよ」。

「イル河(実はテナル河)に、日本の飛行場建設にきていた作業員宿舎のようなものがあり、橋が架かっていたんです。これをまともに渡るのはやはり危険ですから、海岸の河口を渡りました。銃を頭の上に上げて胸まで水が来ました。そして、小さな椰子の木がはえているような所にでました。そこに小隊ごとに展開したんです。沢田哲郎中隊長(第二中隊)は、私の直ぐそばにいました」。

この日水野護(敬称略)は、中隊指揮班の伝令要員として編入されていた。一木支隊のこの日の攻撃には、水野護のいたこの第2中隊が最前列の尖兵となった。
 そして一木支隊はテナル川(東川)をイル川(中川 アリゲータークリーク)と思い込んでいたため、忽然と現れた本物のアリゲータークリーク(イル川)の存在に驚くとともに狼狽した。

「海岸から順に第一小隊、第二小隊、第三小隊と並んだんです。5分くらい歩くと、実弾を込めろと命令が来ました。5発しか入らないんですよ。九九式小銃です。銃弾は200発以上持っていました。背嚢をおろせという命令も来て、総攻撃体制へ移ろうとしたんです」。

この時、20日午後1030分といわれている。
「そのまま伏せていました。擲弾筒の合図で総攻撃することになっていたのですが、先に米軍陣地から照明弾が上がり、昼間のように明るくなったのです」。

イル川から、100メートル程手前といわれている。その後「前岸突入」が命じられたが、米軍の凄まじい攻撃にどうすることもできなかった。
「米軍の銃弾は、下から順に赤、黄色、紫の曳光弾で一定の高さに銃弾が飛ぶようにそろえられていたんです。本当に川のように機関銃を撃ってくるんです。つまり引き金さえ引けば、日本兵が伏せていても命中するように米軍は準備していたんですよ」。

米軍は、一木支隊を手ぐすね引いて待ちかまえていた。
「ここで、第二中隊の大半が戦死したと思うんです。その後中川(実はテナル川)まで下がれという命令が来ました」。
 一旦小康状態になり、水野護は這いながら100㍍ほど下がった。しかし中川(実はテナル川)にはたどり着かなかった。

  8月21日

「左肩を撃ち抜かれ、這うのがやっとでした。途中で水くれんかという負傷兵がいました。10センチほど残っている自分の水筒の水を飲ませました。全部飲んだらお前がこまるべと言いましたが、喜んで彼は飲みました。自分ももうだめだと思いました」。  

一旦撤退した一木支隊は、アメリカ軍の陣地との間に沼のような川(アリゲータークリーク)があることを知った。
 そして総攻撃のルートを、川が海に注ぎ込む河口とした。そこに砂州のような浅瀬があり、比較的容易に突撃出来ることがわかったからである。
 21日未明総攻撃が開始された。米軍は更なる包囲網を敷いていた。そして突撃。これには、先の旭智輝(第一中隊第一小隊)さんが参加している。

「米軍はね、螺旋状の鉄条網もあっという間に作るんですよ。昼間なにもなくても、夜には出来ているんだ。戦車で運んで、引っ張るんだろうね」。水野護。
 この鉄条網にも、一木支隊は行く手を阻まれる。

夜が明けた。負傷した水野護は体を隠す壕を掘り、五人の兵士と息を殺し身を潜めていた。
 そして午後になると、4台の戦車が現れた。ツラギ島から自力で渡ってきた水陸両用戦車といわれている。

「15メートルほど離れた別の壕の上にその戦車が上がり、車体をグルグル回転させました。潜んでいた日本兵を殺そうとしているんです。頭や手足が引きちぎられるのが見えました。次に自分たちの壕に戦車はやってきました。
 たまたま直前の砲撃で側の椰子の木が倒れ、自分上に蓋をするような形になっていたんです。戦車は真上を通り過ぎたけど、その木のおかげで私と真鍋育行(雨竜町機関銃中隊)の、2人だけが助かったんです。他の3人は、目の前で3人が次々と潰されてしまったんです」。

危機はいったん去った。しかし更に水野護の両膝も合計4発の機関銃弾が射抜かれ、彼は歩行不能になっていた。
 「いつの間にか、眠ってしまったんです。朝ほっぺたを叩かれたんです。日本人でした。兵隊さん兵隊さん、心配しなくていいと言われたんです。だからその時は日本軍に助けられたと思ったんです」。

 
                           
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