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フェザーストン発砲事件と看護師ドロシー
                           水野 護さん 

 
 ソロモン諸島                                         2010年4月特別取材                           
 
              
                 〈献身的な看護をした看護師ドロシーオルドリッジさんと日本兵が送った絵                   
 
 
         
  
      〈上は来日した姪にあたるデービスさん
                       下は水野さんご夫妻)
 
 
       
 
 水野護に声をかけたのは、まとめて捕虜となった飛行場建設の日本人作業員たちであった。
 アメリカの記録では、この戦闘での兵士の捕虜は14名または13名とされているが、水野さんの記憶では「8人だと思います。中山(稚内)さん、熊林(旭川)さん、相沢(岩見沢)さん、真鍋(雨竜)さん、宮崎守(標茶)さん、和田少尉などです」。彼らは日本側の戦死者777名の中に入っている。

「一週間ほど米軍テントにいて、船に乗せられました」。
 94日ルンガ泊地から、米軍の捕虜となった飛行場の設営隊員と一木支隊員を乗せた輸送船が出発した。途中ニューカレドニアのヌーメア港に寄航したのち、ニュージーランドのウェリントンに到着した。

負傷した者は、ウェリントンの陸軍病院に収容され治療を受けた。ここで手厚い治療を受けることになる。

無傷の者たちはフェザーストン村に送られた。「フェザーストン収容所」である。有刺鉄線に囲まれた敷地の中に8人用テントが50余り、当初400名が収容された。
 その後第二陣の日本兵が送られてきた。軍人がまとまって入ってきたのは、194210月のサボ島沖海戦で撃沈された巡洋艦「古鷹」の乗組員たちであった。その数100名あまり。収容所は合計840名ほどに膨れ上がった。 

フェザーストン捕虜収容所発砲事件

昭和18年2月25日に、事件が起こる。日本の捕虜ら約240人が就労命令を拒んだのを受け、収容所側が鎮圧しようと発砲。日本側48人、ニュージーランド側も1人が死亡し、双方に多くのけが人が出た。  

「古鷹」の乗組員たちは、日本を敗戦に導くような仕事はごめんであると作業を断ったところ、収容所長は「国際法上の規則では、関係ない仕事には就かせてよいことになっている」と答え、更に威嚇のため、上空に向けて一発発射した。それを聞いた監視兵が射撃合図と判断して自動小銃の引き金を引いたといわれている。

この事件を目撃した水野さんは、
「海軍の代表者が、どうぞ撃つなら撃ってくださいと自分の胸を叩いたんです。そしたらその将校はそこに狙いを定めたんです。とたんに3人の日本兵がその少尉をかばおうとしたんです。その3人が次々と撃たれました。すると今度は10名ほどの日本兵が、ニュージーランドの将校に、飛びかかろうとした。すると周囲の自動小銃でたちまち撃ち殺されてしまったんです」。

水野護たちの収容所生活は4年に及び、帰国は1946年2月5日であった。負傷した両膝の治療はニュージーランドで充分行われていたが重傷であった。
 帰国して直ぐに「東京の海軍病院に入れられました。じつはひと悶着あったんです。化膿していた膝を見て、軍医は切断しようとしたんですよ。
4年もニュージーランドで治療してもらったんですから、簡単に切るなんて言うなと声を上げてしまいました。だから連合国側には感謝しているんですよ。もし日本軍に救出されていたら、生きていなかったでしょうね」。

その5月、ようやく故郷に戻った。
「馬車で兄が駅に迎えに来てくれました。両親が喜んでくれました。
12人兄弟だったんです。自分は死んだことになって戒名もありましたよ。
母親は「まあちゃんは、必ず生きている」と信じていたという。
「父親はね、私に生きて帰ってきたのが一番の親孝行だよと言ったんです」。

  看護師ドロシーオルドリッジ 

ところで水野護さんは、ウェリントン陸軍病院で手厚い看護を受けた。当時の看護師の1人に、ドロシーオルドリッジさんがいらっしゃる。
 その彼女の献身さに、ある傷病日本兵がお礼に絵を贈った。彼女はその絵を大切に保管し、現在ご健在の遺族デービス夫妻が、元日本兵がご健在であるならその絵を日本に里帰りさせたいと考えた。

2009年ニュージーランド在住の日本人佐原律夫さんを通じ、東京新聞と中日新聞が内容を紹介し、同時に絵の送り主探しが始まった。

この記事を目にした名古屋市の南山学園の生徒が感動し、ぜひ人探しを手伝いたいと申し出た。こうして南山学園は遺族を日本に招待し、同時にその元日本兵が見つけ対面を実現して親交を深めたいというプロジェクトが始まった。

他界している看護師ドロシーの代わりに遺族のデービス夫妻が200911月に来日し、南山学園で特別講演などを実施した。
 日本兵探しは、実際に看護師ドロシーの介護を受けた兵士の1人として水野さんが判明した。
水野さんは
「ウエリントン病院で、シスタードロシーから手厚い看護をうけました。シスターは命の恩人です、シスターを忘れたことがありません。今幸せの暮らしているのもシスターのお陰です」と、関係者に話している。

敵国の兵士を、同じ人間として献身的に看護したドロシー。また絵を贈呈しドロシーに感謝した日本兵は、いったいどんな人だったのであろうか。兵士探しの情報提供は、現在も続けられている。   2010/05/04 


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