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    地獄のニューギニア戦線
                           

  
ソロモン諸島                       
    
   
                                                          
 
 
 
    〈上空からオーエンスタンレー山脈を見る)

 
    (ポートモレスビーからのオーエンスタンレー山脈)

            
 〈ゴードンマーケットの入り口)

 
         (混乱するゴードンマーケット)  

  

   
             〈斎藤直次郎さん)

   


  
        〈襲われる輸送船 ダンピールの悲劇)


 

シオからウエワクまでは、直線距離で400キロもある。半月というのが事実なら、上陸地点はもしかするとシオではなかったかもしれない。とにかく大変な、密林の重装備行軍である。
 ウエワクには、第20師団と第41師団が上陸していた。ラエから1千キロも離れている。この距離をいったい日本軍はどうやって克服しようと考えていたのだろうか。
 ウエワクから五500キロのマダンまで進み、ここから更に500キロ先のラエまで道路建設をしようと考えていたらしい。無謀以外のなにものでもない。

「ウエワクといったって、集落もなにもないんだ。ジャングルにバラバラになって、部隊が居るだけさ。マラリアになってな、野戦病院に入院だ。入院っていったって、草の上に寝ているだけだよ。お粥しか食べ物ないから60キロの体重が45キロくらいになってな。そしたら幸運なことに船がきてな、入院の身だから脱出できたんだ。だけど、みんな脱出したいわけだから、上官に袖の下を渡すわけだ。わしも、時計を渡そうとしたんだけどな、そいつはいらんと言うんだ。わしの時計は止まっていたのさ、例のダンピールで海に投げ出されていたからな。とにかく、脱出できたんだ。そういえば、ニューギニアでは一度も原住民を見なかったな。人なんて、全然いないところだ」正に、幸運であった。その後斎藤直次郎は、南洋諸島を経由して広島に戻っている。

その後、ニューギニア各地に米軍が上陸した。米軍は「飛び石作戦」を取り、各地の日本軍を孤立させていった。ジャングルに潜む日本軍など相手にせず、
「ほおって置けばそのうち、餓死するだろう」と、ニューギニアに建設した飛行場から、他の目的地への爆撃に集中した。
 ジャングル内の日本軍は、正にその通りになった。餓死するだけであった。東部ニューギニアに上陸した日本兵合計14万、終戦時の生き残りは12千名であった。そのうち日本に帰国できたのは、1万であった。
 西部ニューギニアでも、5万人が戦没者となっている。ニューギニア島で亡くなった約20万の将兵のうち、九割は餓死とされている。1万人が救出されたガダルカナルよりも更にひどい、飢餓地獄がそこにあったことになる。

  

 日本軍は、真珠湾攻撃以降マレー半島・シンガポール・フィリピン・インドネシアを予想越えるスピードで占領していった。特にオランダ領インドネシアの占領によって油田地帯を手に入れたことは、この戦争にとって欠かす事の出来ない条件となった。

日本軍は昭和171月、ニューブリテン島ラバウルを占領する。そしてガダルカナル同様凄惨な「ニューギニア作戦」は、昭和173月東部のラエ・サラモアを占領したことから始まる。日本軍には、ここからニューギニアの中心地ポートモレスビーを攻略し、オーストラリアからの連合軍の反攻を阻もうという狙いがあった。

この「ポートモレスビー作戦」は、「ガダルカナル作戦」と同時並行して行われ同じく全く無意味な作戦に終わっていく。
 ポートモレスビーへの攻略は、順当に考えるなら当然海からである。昭和1754日、ラバウルから上陸作戦に参加する南海支隊が出航した。輸送船団は14隻、これを護衛する機動部隊に対して、米機動部隊が待ち伏せし日本艦隊と対決することとなった。

これが、「珊瑚海海戦」である。空母「祥鳳」と巡洋艦の攻略部隊を、空母「翔鶴」「瑞鶴」の機動部隊が支援する作戦がとられた。米は、空母「ヨークタウン」「レキシントン」で待ち伏せしたわけである。
 8日両軍はほぼ同時に索敵を開始し、ほぼ同時に攻撃隊を発進させた。ここに、世界史上初の空母対空母の海戦が始まった。約70機の日本攻撃隊は、2隻の空母を大破させた。「レキシントン」はその後爆発して沈没、「ヨークタウン」は満身創痍ながらハワイにたどり着いた。

その1か月後のミッドウェー海戦に、このヨークタウンは参加するわけであるから、アメリカの工業力には驚かされる。

一方米の攻撃によって「翔鶴」は大破し「瑞鶴」はスコールにより攻撃を免れた。この海戦で大破した「翔鶴」と艦載機を失った「瑞鶴」は、ミッドウェー作戦に参加することができなくなった。もしこの海戦がなく「翔鶴」「瑞鶴」もミッドウェーに出撃していたらどうなっていたのだろうか。空母6隻喪失などという事態になっていたかもしれない。この珊瑚海海戦によって、日本は海からのポートモレスビー作戦を諦めた。その代わりに登場したのが、無謀な陸路からの攻略作戦である。オーエンスタンレー山脈を踏破して、ポートモレスビーに殺到しようというものである。

これは実に360キロの距離があり、しかも道もない未踏の山岳地帯である。5千名の部隊を送った場合、米だけを徒歩で補給するには兵隊1人が25キロを背負い一日20キロを歩くと想定しても、3200名もの補給兵士が必要という計算が成り立つ。したがって、この作戦は理論上不可能である。
 しかしこの作戦を実行しようとするところに、当時の軍部の無謀さがある。始めから失敗は、明らかであった。これを決定し命令としたのは、やはり大本営辻政信であった。しかも独断で暴走した辻の決定を、大本営も追認してしまった。

辻は当時マレー作戦に成功し「作戦の神様」とされていたが、3年前の大敗した「ノモンハン」の作戦も彼がたてたものである。結局この作戦で、6千名の日本兵がジャングルに消えることになる。

昭和177月第17軍は南海支隊をブナ付近に上陸させ、朝鮮人労務者千名とラバウルでの現地住民1200名に物資を担がせて、前進をした。826日山間部のココダを占領した先遣隊と合流し、912日にはイオリバイワまで前進した。ここから遥か南にポートモレスビーの灯を、見たという。

しかしニューギニア作戦にあてるはずの第2師団を、ガダルカナル島に急遽投入することになったので、923日この南海支隊をココダまで後退させることになった。しかし11月ころから連合軍に背後から攻撃されるようになり、南海支隊は退路を断たれて孤立してしまう。 こうして食料と退路を断たれた日本軍は、ジャングルの中に腐乱死体を散乱させてこの作戦を終えている。

 
現在のポートモレスビー

まずニューギニア島だけでも、本州の2倍の面積がある。この「大陸のような島」に、現在も人口1万人以上の町は7つほどしかない。しかも国土が広すぎて、道路でつなぐことは無理な話である。都市(都市とはいえない集落である)間の移動は、飛行機である。

現在のパプアニューギニアの首都ポートモレスビーも、荒涼とした大地に集落が点々としているような場所であった。しかも、ボートモレスビーの市街地を一歩出ると、未開のブッシュとジャングルが果てしなく続いている。人々の暮らしも、一歩町を出ると石器時代的な未開のままの生活である。     

現在も「素朴さ」が基本であるが、「素朴」だけではすまない国内事情をこの国は持っていた。貧富の差もあまりないブッシュの中での生活に、突然現代の物質文明が流入したのである。多くの発展途上国が経験している、現像であろう。人々の心は物質に揺り動かされ、犯罪・不正が横行した。

私は、ガダルカナルへの中継点として、この国の首府ポートモレスビーに立ち寄り、この国の現実の苦悩を垣間見た。往路で訪問した日には特別なことはなかったが、復路で訪問した815日に、私はこの国の苦悩を見せ付けられることになった。

ガダルカナルと違い、熱いが空気がカラッとしていて気持がいい。私たちはその気持よさに誘われて、ホテル前のバス停からこの国一番のマーケット「ゴードンマーケット」に向かった。路線バスは、10分ほどで目的地のマーケットにたどり着いた。降りようとすると、乗客の地元のおじさんが険しい顔で、
「どこに行くんだい?」
「ここですよ。ここがゴードンですよね?」
「そうだが、もう終了しているぞ」と言う。

しかし、日はまだ高く大勢の人びとの姿が見える。おじさんは私たちの身の回りを点検し、私のバッグの口などを閉めなおしてくれた。「変なおじさんだなあ」と、その時は感じていた。

マーケットは、人で溢れていた。雰囲気は良くはなさそうだが、何時ものように人ごみに入った。カメラを回すと、群集に取り囲まれた。その瞬間、私のズボンのポケットに手が滑り込んできた。妻は、取り返したがサングラスを顔から毟り取られた。この時私は「危険」を初めて感じて、もとのバス停に戻ることにした。振り返ると、群集がマーケットの中央で騒ぎ出している。
 うしろの青年が、「喧嘩さ。いつもの事だ」とつぶやいている。

「ひどいところだなあ」と思い、やって来た市内バスに私が乗ろうとした。その瞬間、一瞬取り残された妻に、男が近づきバックを引っ張り取ろうとした。なんとか、引っ張りかえし更に危険を感じて市内バスに乗り込んだが、今度はバスに一人の少年が上がりこみ更に妻のバッグをむしり取ろうとした。目の前の一瞬の出来事に私は大声をあげて周りにもアピールしたが、周りの人々は何もしない。

私は、バスの乗客全員の顔を見た。おろおろして、何もできない市民の姿だった。彼等は、逆に私をなだめるのだ。
「毎日のことだ」と、隣の男も言うだけである。私達の乗った市内路線バスは、ようやく走り出す。途中で後ろの座席に座っていた中年の夫婦が私に近寄り、

「このバスは危険だから、一緒に降りよう。あなたたちは狙われている」と耳打ちした。私はとっさの出来事に、判断がつかない。他の乗客も降りだしたので、忠告に従うことにした。バスを降りるとその夫婦が、

「ここは、あなたたちの来るところではないのです。あなたたちは、狙われていましたよ。あのままバスに乗っていたら、バスの運転手たちにそのまま連れ去られ、貴重品を取られるだけではなく、殺されていたでしょう。ここからタクシーで、ホテルにお帰りなさい」私たちは、この内容に言葉を失った。

すると、そこに偶然見覚えのある方が現れた。つい先ほど、空港で私たちにこの日のホテルを紹介してくれた警備員の方だった。彼は私たちを見つけて、
「どうしてここに? 私が紹介したホテルはどうしました?ここで、何をしているんです」私が事情を説明すると、
「いいですか、ここはあなたたちの来るところではありません。ホテルから一歩も出ては、いけませんよ。明日成田(東京とは言わない)に戻ってください。いいですね」こうして私たちは、身をもって「悲しいこの国の実態」を知ったのである。

  ダンピールの悲劇

 前線基地ラバウルのあるニューブリテン島と、ニューギニア島の間にはダンピール海峡と呼ばれる海峡がある。
 昭和18年初旬、日本軍はラエで壊滅的な打撃を受けていたが、体勢の建て直しをはかって、第51師団の残る7千名を8隻の輸送船でラエ地区に上陸させる作戦が開始された。
 33日この船団がダンピール海峡に差し掛かった早朝、連合軍の爆撃隊が襲い掛かり、8隻全てが撃沈され約半数の将兵が海中に没した。生存者は駆逐艦に救助されてラバウルに引き返したが、ごく一部が着の身着のままでラエに上陸した。これが、「ダンピールの悲劇」といわれるものである。輸送船団を護衛する航空兵力は、すでに日本軍は失っていた。

この「ダンピールの悲劇」を体験した方と、めぐり合うことが出来た。北海道池田町の、斎藤直次郎さんである。 彼は、大正5年に群馬県赤羽村で生まれている。東京の印刷材料会社に勤務していたが高崎歩兵第15連隊に召集され、基2804部隊に編成された。

満州そして中国南部に派遣されたのち、45日間輸送船に乗せられ昭和171227日にラバウルに上陸している。そして「ダンピールの悲劇」に遭遇したわけである。
「いったいどこに行くのか、どこにいるのかも何もわからなかったね。朝甲板に居たら、白い米軍機が40機くらい超低空で飛んできたのさ。だから発見が、遅れてな。魚雷を食らって、総員退去命令がでたよ。鮫よけの白い3メートルほどの布を、腰につけて海に飛び込んだよ。運がよくて、つかまる箱を手に入れて4時間後に駆逐艦に拾われたんだ。わしの中隊で生き残ったのは、10名くらいだよ。輸送船7隻は、全部やられたんだよ」
 その後いったんラバウルに戻り約2週間後、駆逐艦に乗せられ夜間のニューギニア上陸となった。
「上陸したのは、シオという地点です。集落もなにもありません。駆逐艦1隻で、僅か20名くらいで上陸したんですわ。米軍が盛んに、照明弾をあげて昼間のように明るいのですよ。驚いたのは、日本兵の殆どは死んでいました」
 病死と餓死者が、あたり一面をおおっていたという。シオに上陸後、ウエワクに向かって行軍を開始した。
「海岸ではなくて、密林のジャングルを半月くらい歩いたかな。機関銃を分解して運んだよ。背負子もあったな。指揮官は、重いものを背負わないんだよ、ひどいもんだ」

       
                         
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