HOME〉Guadalcaanal                                             Guadalcanal Island >2003-08


            
      餓島撤退作戦 1943年2月                            

  
ソロモン諸島                       
    
   
                             (エスペランス岬周辺の海岸と地元の女性) 
                          
                   
 
 
        
〈こんな橋も渡らねばならない)

  
           〈エスペランス岬の灯台〉

       
      (エスペランス岬からサボ島を見る)
 

 
        (エスペランス岬周辺の人々) 
       
      
  
      
            (上野政雄さん) 

 
       (フランシスと教会のシスター) 

    
           (島の少年) 
 
 私たちの車はいよいよエスペランス岬に、差し掛かる。
「あっ、あの灯台だ」とても小さいものだったが、この地の立派なランドマークである。岬には何となく集落があり、私たちが降りると人々が大勢集まってきた。
 岬の先は、勿論海である。海の向こうの500キロ先にブーゲンビル、1000キロ先にラバウルがある。多くの兵士の思いがここに残り、数々の海戦を経験したサボ島も、直ぐそばに見える。

昭和1824日には、第2師団が撤収している。この日は、月のない暗闇の中を2時間ほどで乗船を終えた。
 しかしこの日も、われ先へと兵士が艦艇に群がった。百武司令官も、駆逐艦「磯風」に乗り撤収している。撤収に際して、次の命令が兵に残された。「患者は絶対に処置すること」「残留者は機密書類を残さないようにし、敵が来たら自決する事」

方川新一は、撤退する27日の3日ほど前に、命令をうけエスペランス岬に向かった。弱った体を引きずり、更に弱った戦友と一緒に這うように進んだ。肩を抱きかかえられた上田晃大(現在札幌市)の
「俺はもういい、置いていってくれ」という声を方川新一は遮った。

「何言ってる、頑張れ!」と。

「道の幅なんて、車1台通れるくらいです。珊瑚の白い道なので兵隊の白骨がたくさんあっても、目立たずに済んでいました。タサファロングからエスペランスまで10キロほど歩き、乗船しました。
 ボートに乗り、駆逐艦にたどり着きました。ところが駆逐艦に這い上がることができず、そのまま海に落ちてそれっきりの兵士もいたのです」方川新一

駆逐艦の乗組員は、撤退兵士のボートが暗闇の中近づいてくると、ものすごい異臭を感じたという。そして自力で乗り込むことのできない兵士たちを、次々に引っ張りあげた。 大勢の兵士たちが、甲板の上で倒れたまま動けずにいる。しかし、ここまでたどり着いた兵士は、幸運だった。自力で動けない兵士たちは、木の幹などに寝かされ、そのまま置き去りにされたのだから。
 この27日の第3次撤収は、司令部でも「可能であれば実施する」というもので一木支隊の生存者の優先順位は、最後であった。

撤退部隊がもっとも懸念していたのは、駆逐艦が本当に来るかどうかと、駆逐艦に乗り移るための大小発動機である。大発15隻・小発11隻がなんとか彼らを運び終えた。
「私は、比較的元気でしたが、道には白骨がたくさんありましたね。死体の匂いもすごかったね」金谷新三郎

 撤退する兵士たちは27日午後730分に舟艇に乗り移り、8時ころには海岸の闇の中でじっと待機していた。

午後830分、アメリカ軍の魚雷艇2隻が現れ、激しい射撃が起こった。その後静粛の後午後九時に駆逐艦が現れ、合図の青煙2個が点滅した。「はじめは、アメリカ軍の罠かと思いましたよ」方川新一  
待機していた各舟艇は、一斉に発進した。

「駆逐艦に乗る時は、比較的穏やかに乗れましたよ。全員が乗れたと思います。駆逐艦は45隻だけだったと思います。たとえ20隻が出動したとしても、ガダルカナル近づけたのは5隻くらいだったんでしょうかね」金谷新三郎。

1769名全員の乗艦が確認されたのは、午後1020分のことである。駆逐艦は、全速力で暗黒の海を走った。多数の屍と、まだ生きてはいるがやがて自殺するしかない男たちを島に残して。こうして第3次撤収部隊は、翌朝ブーゲンビル島エレベンタに到着した。

駆逐艦「大潮(おおしお)

この撤退作戦には、加藤義政さんが乗り込む駆逐艦「大潮」が2度参加している。

「ボロボロの衣服の兵隊たちが、縄梯子を上がってきたな。縄梯子を上る体力があるのに、甲板にたどり着くと、安心するのかそこで息を引き取る兵隊が大勢いたのさ。縄梯子から海に落ちて、それっきりの奴もいたさ。駆逐艦の中にいれると、そこで小便・糞を垂れ流して臭いったらありゃしない。そのまま死んでしまう奴が、大勢いたな。
 わし等は臭いし甲板にいるしかないんだけど、駆逐艦は40ノットくらいの全速力で進むのさ。時速80キロの猛スピードだからな、立っているのも大変だし寒くってしかたないんだよ。
 死んだ兵隊は、水葬にして海に流すんだ。駆逐艦の中は、暑いから臭くってしかたないからな。不思議とアメリカ軍の攻撃はなかったな、今思うとアメリカ軍はわざと逃がしてくれたんだな」

17軍司令官百武中将は、敗戦の責任をとって自決する覚悟であったが、「あなたが、兵を飢えさせたのではない。2万の戦友の霊を見守るためにも、生きてください」と説得され、自決を思い止まった。司令官一人が自決して済む問題ではない。

熊大隊のうち、日本に帰国できたものは30名ほどであった。生きて帰国したものには、緘口令が敷かれた。ガダルカナルの敗北を、国民に知られるわけにはいかなかった。
 憲兵が、彼等の行動に目を光らせていた。そして、第2師団と第38師団はその後ビルマ作戦に送られ、その殆どがガタルカナル以上の悲劇を体験するのである。

私たちは、このエスペランス岬で慰霊をした。辺りには日本から持ってきた「米」を撒いた。兵士達は、どんなに空腹だった事だろう。私はここでも現地ガイドのフランシスに、一木支隊の人々の話をした。フランシスはメモまで取る熱心さだ。
「実は今、私は少年野球のコーチをしているんです。チームの名前はジェネラルイチキ(一木将軍)なんです。彼のことを、詳しく教えてください」とフランシスは言う。

私はこれにどう答えていいか分からず、愛想笑いもできなかった。どうやら、フランシスは壮絶な死に方をした一木大佐を英雄視しているようだ。私は一晩考え翌日、
「ジェネラル川口は、人道主義者です。しかしジェネラル一木は、そんなタイプではありません。一言で言うと、サムライですね。結果的に、多くの兵士を戦死させました。殆どの日本の指揮官は、このタイプでしたよ」と答えた。果たして、これが適切な回答かどうかは分からないが。

ここでも、私はフランシスに饒舌に話をした。
「見てください。この方はウエノマサオといます。この近くにあった、ビサレというところで病死したんですよ」
「ビサレなら直ぐ近くです。直ぐに行きましょうよ」
 そうか、地図にも「ビィサレ」という地名がちゃんと載っているではないか。私はそれまで「ビサレ」とは日本の兵站病院のあった山間の地名とばかり思っていたのだ。そのビサレ村も小さな集落で、エスペランス岬から500メートルほどの距離しかない。
 北海道本別町の浜名四一宅の僅か500メートル東に、このビィサレで亡くなった上野政雄の生家がある。現在も、弟にあたる上野光宏さんがご健在であった。

上野政雄は大正7年生まれであるから、方川新一さんとは同い年で幼なじみである。彼はノモンハン事件に参加しいったん故郷に戻ったが、真珠湾後は幼なじみの方川新一・浜名四一とともに同じ道を歩んでいく。

弟光宏さんの話では、「昭和171220日戦病死」という通知が、兵隊手帳・砂などとともに届けられたという。上野政雄は、速射砲中隊に所属して歩兵砲を扱っていた。
「私と彼は、同じ歳の幼馴染でした。17年の11月ころ第三次ソロモン海戦のころだと思います。彼と私は、ガダルカナルで会ったんですよ。それが、最後でした」方川新一

そのビィサレの集落で一番大きな建物は、「教会」であった。教会の女性を、フランシスは紹介してくれた。彼女に私は上野政雄の話をすると、目に潤ませて指を組んでお祈りをしてくれる。私は、この出来事に思わず胸が詰まった。

海岸は、白いサンゴがいっぱいであった。上野政雄の遺族に届けるために、私はいくつかの珊瑚を拾った。西海岸の最終目的地は「カミンボ」であったが、フランシスが
「道が悪くて、時間的に無理です・・・」と言う。 私は、ここビサレで充分であった。心が満ち足りていた。
「ここまでで本当に充分ですよ」私の言葉に、フランシスも嬉しそうだった。

アイアンボトムサウンド(鉄底(てってい)海峡(

  エスペランス岬からの帰路は、来た道を戻ることになる。左側の海岸からは、対岸のサボ島や三〇キロほど先のフロリダ島・そして日本軍が玉砕したツラギ・タナンボコの島々がココナッツ林の間から見え隠れする。
 この海峡で、日米が幾度となく激しい海戦を繰返した。三次に渡るソロモン海戦・ルンガ沖海戦などだが、実に八〇隻ほどの艦艇が撃沈され、アイアンボトムサウンド(鉄底海峡)と名づけられている。

現在も海底の鉄の船が、海上を航行する船のコンパスを狂わせると言われるほどである。大きい物では、戦艦「霧島」「比叡」、巡洋艦「キャンベラ」「クシンシー」「古鷹」などが有名である。
 とにかく、乗っているのは人間である。撃沈のたびに、数千人の乗組員がサメのいる海に投げ出された。そして、岸に向かって泳いだであろう。遠くにツラギ島が見える。フランシスが、

「ツラギには、古くから財宝伝説があります。インドネシアにいた日本軍が、あの島に財宝を隠したという伝説です。私も五年ほど前から、財宝探しのガイドもしてるんですよ」
 なるほど、この国の名は「ソロモン諸島」であるが、この名の由来は古代パレスチナの「ソロモン王国」の財宝伝説に始まる。その財宝を求めて、スペイン人メンダーニャが一六世紀にやってきたのである。私は、考え込んでしまった。
「なるほどソロモンの財宝、日本軍の財宝か

              
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