HOME〉Guadalcaanal Guadalcanal Island >2003-08 取り残された兵士たち ソロモン諸島 |
(ギフ高地バラナ村にある、兵士たちの遺品) |
〈原田昌治さん NHK番組から) 〈ギフ高地の山頂〉 (バラナ村にあるギフエレメンタリースクール) (ギフ小学校の子供たち) (稲垣部隊 西垣部隊の慰霊碑がある) (日米の兵士の遺品が村にある) (日本軍機の翼が印象的) |
アメリカがこの撤退作戦を事前に知っていたかどうかとなると、意見が分かれてくる。米軍が、日本のラジオ放送(撤退ではなく転進という発表)を聞き、半信半疑で部隊を進めて見ると、日本軍駐屯地はもぬけの殻だったという記録が残っているが、多くの兵士が、「わざと、逃がしてくれた」という感想を漏らしている。真相は謎であるが、米上層部は知っていたと考えるのが自然であろう。 それにしても、自力で動けない兵士はその場で処分されている。薬物の注射や、手榴弾による自決が強要されたし、連絡の届かなかった者は自動的に置き去りにされたことになる。その兵士たちは、どんな気持だったのであろうか。 原田昌冶は、この「見捨てられた兵」の一人である。彼は、昭和18年1月ころはエスペランス附近の野戦病院にいた。そして、運命の撤退作戦が始まった。 2・3日経って騒々しかった海岸が妙に静かになり、海岸まで這い出してみると、目の前の浜をアメリカの艦艇が悠然と進んでいる。この時、彼は日本軍に捨てられた事を知った。機密保持を理由に「処分される」ことから免れたのだから、幸運ではあった。 あたりに日本兵は見当たらず、100メートルほどジャングルに入ったところに現地人の小屋を見つけた。すぐに潜り込んだが、ここで死を待つばかりの状態になっていった。 「彼等は、椰子ガニを捕ってきては煮て食べていました。私にはくれませんが」原田昌冶。 その調理の水煙が、結果的にアメリカ軍に発見されることとなった。 その矢先、米軍の自動小銃の乱射を受けた。元気な3名はさっさと逃亡したが、秋田出身の兵士は即死した。すると暫くして、米兵5・6人が小屋に入ってきた。米兵が、寝ていた原田昌冶の胸倉を掴んで引き起こした。その瞬間、彼は隠し持っていた木槌で一撃を米兵の顔面に加えた。とたんにその米兵は、銃の台座で彼の顔を殴打し原田昌冶は気絶した。 米軍は、糞便にまみれた彼の体を綺麗にするなど、親身の看護をしてくれた。彼を診察した軍医は、病状が悪化しすぎてもう何日も持たないと判断した。彼を保護した海兵隊員のシェリーを通じて、 「思わず、カレーライスと答えてしまいましたよ。笑」 原田昌冶は2日間ほど、意識不明であった。マラリアと衰弱、そして精神も不安定なまま、その後船に乗せられニューカレドニアに移送された。 ここには、多くの日本軍捕虜が収容されていた。その収容所では、使役労働をめぐって収容所側と巡洋艦「古鷹」(第3次ソロモン海戦で沈没)の乗組員たちが対立し、50名近くが死亡する事件も起こっている。 昭和18年6月、原田昌冶はアメリカ本土へ移送されることとなった。サンフランシスコの収容所では初めて、本格的な取り調べを受けている。捕虜になった将兵の大半は偽名で階級もデタラメだったが、彼は全てを正直に回答していた。そんな原田に対して、アメリカ側は好感を持った。 見捨てられた部隊 原田昌治が「見捨てられた兵士」であるなら、「見捨てられた部隊」も数多い。その一つにアウステン山に続く「ギフ高地」で出会う事が出来た。このギフとは、「岐阜」である。 アメリカはこの地区の部隊を第38師団の「岐阜」からの部隊と見破り、この地の名としていた。 学校のある集落をあとにすると、更に集落が現れた。ここには、あたりから出土した当時の兵士の軍用品などがあった。 ヘルメット・水筒・飯盒・薬品の瓶が大半で、アメリカのものが多い。しかし、零戦の翼もあれば、日本語で「青綿・白綿」と書かれたキャップのようなものもあり興味深かった。銃弾に打ち抜かれた水筒を目の当たりにすると、やはり戦場の怖さが伝わってくる。 ピータージュニアの案内で、丘に登る。ものすごい暑さだが、ここが「ギフ高地」の山頂のようだ。 山頂には、岡部隊(岡朋之祐大佐)の慰霊碑が立っていた。 コカンボナ その手紙は、中国とフィリピンからのものであった。 |
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