HOME〉Guadalcaanal Guadalcanal Island >2003-08 エスペランス岬 ソロモン諸島 |
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〈斎藤さんたちが歩いたエスペランス岬への道) (NHK番組で語る斎藤さん) 〈当時の斎藤清さん) (エスペランス岬に続く道から内陸部を見る) 〈こんな橋も渡らねばならない) |
エスペランスとは、スペイン語で「希望」という意味である。そしてこの島の西端に、この名の岬がある。「エスペランス岬」とは何と美しい響きだろう。 16世紀の大航海時代、ここに財宝を求めてやってきたスペイン人たちが名づけたものに違いない。この時代から様様な人々が、この響きに「希望」を求めそして掛けた。 昭和18年2月の、日本軍の撤退はこの「エスペランス岬」周辺で行われた。多くの兵士にとって、正に撤退作戦は「希望 エスペランス」であった。私は、1万人の兵士の撤退をいつも思い描く。 「松田一等兵という者と、一緒だったんです。彼は途中空腹で歩けなくなったので、私が持っていた米を食べさせてやったんですよ。すると、彼が一人で全部食べてしまったんです。ひどいもんです。その後、今度は私が歩けなくなったんです。 その夜、絶望した斎藤清は海岸で幸運にも7匹のヤシガニを見つけ、命をつないでいく。彼はたった一人になっても、米軍機は襲ってきた。 2003年8月12日、ガダルカナルの西端「エスペランス」岬が、近づいてきた。人家のない地域である。周囲は意外と広広としていて、道も海岸から離れたところが多い。 私は、斎藤清さんたちが苦悩した道を、歩いてみたかった。道は、現在も未舗装だがしっかりしていた。 この撤退作戦は、もちろん極秘に進められた。撤退は、昭和17年12月31日の御前会議で正式に決定されている。この作戦は、真重に実行されていく。アメリカに知られるのはもちろん、日本軍兵士にも知られるのは危険である。飢餓上を彷徨う兵士が撤退のことを知ればパニックになり、われ先に撤退艦艇に殺到しそうなれば戦線は総崩れになるだろう。 米軍が知れば、一機に攻勢にでてやはり日本軍は壊滅してしまう。極秘に行われたのが、この撤退作戦である。 あとに来た部隊ほど先に撤退し、先に来た部隊ほどあと回しにされた事になる。方川新一たちは、2月7日の最終日ということになる。撤退する時、自力で歩けないものは自決が強要された。その命令が、1月20日タサファロングの戦闘司令部(軍司令部はエスペランス)から出された。捕虜になる事が許されない国なのである。 2月1日の第38師団中心の撤退は、混乱した。兵士がわれ先に艦艇に群がり、エスペランスで1270名、カミンボでは300名が積み残された。しかし、第1次撤収はひとまず成功した 「ある日2月1日だったんですが、集合しろと命令されたんです。最後の攻撃に出ると、言うのです。もうどうにでもなれと思って銃を手に、夜の8時に集められ随分と歩かされました。その時立ち上がらず病院に残った兵士は、薬物を注射され処分されたとあとで聞きました。アメリカは、日本の駆逐艦が迎えに来る事を知っていたんですね。魚雷艇が待ち伏せして、駆逐艦と派手な海戦を目の前でやっているんです。しかし、大発に乗り駆逐艦に乗れたんですよ」斎藤清 彼の記憶では、駆逐艦は数隻で撤退兵士もせいぜい1000名程度だったという。「撤退兵士4935名」という数に、信じられないという顔をされていた。 |
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