HOME〉china                                                    China Opiumear>2011


            
   川鼻の海戦と沙角砲台
               
ア ヘ ン 戦 争Ⅱ
                               
  
中華人民共和国                       

  
        〈川鼻の海戦はこのあたりで行われた。珠海発虎門行路線バスの虎門大橋から南側を望む。 2010 12 31〉
                

 
      〈川鼻の海戦の古戦場 威遠砲台から 2010 12 31)

 
   〈アヘン母船 特徴あるこの船に商人はアヘンを貯蔵していた)

  
       〈当時の尖沙咀での事件 香港歴史博物館で) 

 
            〈沙角砲台の砲 2011 1 1〉

  
               〈同じく沙角砲台で) 
  

     〈1841年1月7日 第一次虎門攻撃  沙角砲台沖での海戦図
               右側に鉄製砲艦ネメシス号が描かれている)

 
   川鼻の海戦

エリオットたちイギリス人はマカオに退去していたが、18397月7日現在の香港九竜の尖砂嘴でイギリス人水兵と住民との間で喧嘩が発生し、住民林維喜が死亡した。
 林則徐は、それを種にエリオットのマカオからの退去を考えた。これに対してポルトガル当局は拒否できず、イギリス人たちはマカオを去っていく。しかしエリオットたちが向かったのは、シンガポールではなく逆方向の香港島であった。彼らはここに前進基地を建設し始めた。エリオットたちは、清との武力的解決を決意したのである。

9月に入ると、シンガポールから28門をもつフリゲート艦ボレージ号が到着した。1026日、本国から珠江外の武力行使の許可が出ると、九竜沖で中国船を攻撃した。中国船はたちまち撃沈された。10月末、20門を備えたフリゲート艦ヒヤシンス号も到着した。
 しかし、武力解決の準備をしていたイギリス側に、思わぬことが起こった。ある商船が英政府の方針に従わず、広東を目指した。これが商船トマス・カウツ号である。この船はエリオットの方針に反対し、アヘン抜きの正当な貿易を主張し林則徐の誓約文書の署名にこっそり応じて広東に向ってしまったのであるち。
 さらにもう一隻の商船ロイヤル・サクソン号も、これに習おうとした。この二隻は以前からアヘン以外の商品を扱う「正当な貿易」を行っており、英本国の政策には反対であったわけである。エリオットは本国を裏切ったこの二隻を阻止しようと、珠江河口に向った。すると、中国ジャンク兵船が現れた。

1839113日、ここで両軍は衝突した。この海戦を「川鼻の海戦」という。砲撃は二時間続き、ボレージ号も損傷を受けたが、ヒヤシンス号は後方にいたため損害は少なかった。参加したこの英軍の二隻の軍艦は、フリゲートと呼ばれランクでいうと最低の六等艦であったが戦いは一方的になった。関天培が率いるジャンク船29隻の大半が大きな損傷をうけ、うち4隻がたちまち撃沈されてしまった。文明の差は大きかった。莚でできた帆を使う木造のジャンク船は、近代的なイギリス艦隊の敵ではなかったのである。この海戦をアヘン戦争の開始とする見方が多い。

 しかし林則徐はこの海戦を、勝利と道光帝に上奏した。道光帝は気をよくして、「清英貿易の停止」を発表してしまった。林則徐は、誓約書の提出さえあれば阿片を除いて貿易を再開する方針であった。道光帝は、ここでも林則徐より強硬であった。この海戦は、大河珠江の入り口にあたる海峡で行われた。現在も香港・マカオそして経済特区の珠海と大都市広州を結ぶ重要な通路として、多くの船が行きかっていた。

沙角砲台と第一次虎門攻撃

アヘン戦争の古戦場として名高い「沙角砲台」は、虎門市街地から南へ約10キロメートル、現在はタクシーでも15分たらずの距離にある。砲台は広東の中心地広州へ続く珠江に突き出た沙角山に作られ、正に珠江の「入り口」に設けられている。砲台は1801年から作られているが、後に水軍提督の関天培により本格的な砲台となっていった。砲台の長さは139メートル、そこに11の砲が設置されていく。
 砲台周辺は丘陵地帯になっており、火薬庫などの施設が耐火煉瓦構造で併置されていた。当時大砲の射程は乏しく外国船には不十分と感じた関天培は、広東水軍提督に就任後、沙角砲台の戦力増強に力を注いでいる。

 この砲台がイギリス軍の攻撃を受けるのは複数回にわたる。本格的なものでは18391215日のブルーマー提督によるものがあげられるが、1841年1月7日には完全に破壊占領されている。
 この日イギリス軍は20数隻の軍艦を出動させ、1461名の陸戦隊が上陸した。対岸の大角要塞にはスコット大佐の4隻、そしてこの川鼻島の沙角砲台に対して、低地要塞にはハーバード大佐のヒヤシンス号など三隻、高地要塞にはクイーン号とネメシス号が砲撃し、他の主力艦隊は虎門水道中央で戦闘部隊を援護する形になった。
 この沙角砲台では激戦となった。援軍のない中、副将陳父子をはじめわずか600名の守備隊の多くは壮絶な戦死をしていった。これがこの戦争初めての本格的陸戦であるが、勝敗は一方的であった。
 ここで中国兵は292名戦死、463人負傷という数字がある。イギリス側には38名の負傷者のみで戦死者は出なかった。実相は近代的なマスケット銃と刀槍・火縄銃との戦いであった。沙角砲台も結果的に英軍により破壊され、これが「第一次虎門攻撃」と呼ばれる。

私は2010年の元旦の朝、この沙角砲台を訪問した。虎門市街の南のはずれに位置し、なるほど広大な海峡が西に広がり現在も海防の要地であることが分かる。地元では観光地らしく、土産物屋が並び朝早くから訪問客が繰り出していた。

エリオットはこれで失脚した林則徐の後任埼善が、妥協するとみた。8日から交渉は再開された。埼善は粘り、賠償金を減額させ、英軍の定海からの全面撤退を勝ち取った。
 1月20日、エリオットと埼善は「川鼻仮条約」を締結した。そこには、香港の割譲が含まれていた。埼善は皇帝の許可が得られないことを予想し、サインのみで仮調印の形で処理したのである。埼善からみれば、定海からの撤退と沙角砲台と大角島砲台の回収は香港島割譲に十分見合うものだった。エリオットには、イギリス商人の早期貿易再開要求に応えねばならなかった弱みがあったのである。
 


  
       〈沙角砲台から  虎門鎮の市街を見る)              〈虎門鎮は意外な大都市 交通の便もよい)

  
  〈町の中心「太平広場」にはアヘンのパイフ゜を折る像がある)       〈虎門鎮は中心街 大変なにぎわいに驚かされた)


                          BEFORE((     〉〉NEXT

inserted by FC2 system