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   公行貿易とアヘン焼却
               
ア ヘ ン 戦 争Ⅰ
                               
  
中華人民共和国                       

  
                       
                         〈林則徐像    虎門の林則徐紀念館で  2010 12 31

                

    
     〈アヘン患者 靖遠砲台にあった資料館で 2010 12 31)

  
            〈美しい広州市沙面地区  2011 1 1)

   
            〈左中国商人、右は欧米商人 沙面で〉
  
  
              〈貿易時代の十三行街)

   
                〈同じく沙面地区で) 

 
  公行貿易と広州十三行街

アヘン戦争は、あまりにもその存在の重要性から「世界史」の中に大きく位置づけられている。この戦争についてここで長々と語ることは避ける。ただ長年私の中で、「いったいどんなところで、戦いがあったのだろう」という思いがあった。今回広東省周辺部を周り、その戦跡をたどる機会をえた。

「アヘン戦争」という名に従えば、「不義」のイギリスに対して中国側は「正義」の側に立つ。当時の「帝国主義」の、典型的な被害者の立場にあるわけである。
 戦争の原因となった当時の貿易システムは、旧態依然の「公行貿易」である。中国は歴史的に中華思想の立場から「朝貢貿易」の立場にたち、対等な立場での貿易を他国と行ってこなかった。すべては「他国からの貢物に対するお礼」として、品々を他国に渡していた。したがってそこには、近代史に必須の「自由貿易」は存在しなかったわけである。
 当時のこの「制限貿易」の窓口は、広東(広州)であった。広東の「十三行街」といわれる地区に、外国人の居住を認めそこに商館をつくらせた。そして中国側貿易商人たちの「公行 コホン」と呼ばれる商人組合に、輸出入を独占させいたのである。
 この「十三行街」は、広東省の省都広州にある。地下鉄一号線「黄沙駅」で下車し南に向かうとなるほど、水路が見える。現在は「沙面 シャーミェン」とよばれ、東西900メートル南北300メートルのラグビーボール型の小島である。ここがいわば中国の「出島」である。北京条約締結後の1861年からは英仏の租界(植民地)となり、現在も当時の西洋風の美しい建物が残り市民の憩いの場となっていた。
 2011
年元日の連休とあって賑わっていたが、それにしてもそこで日本の女子高校生の制服やアニメキャラクターなどを元にした「コスプレ撮影会」などが開かれているのを目にして、私は本当に驚いてしまった。

もちろん各国は、この公行システムに不満であった。第一に広東の立地が良くない。珠江デルタ地帯の遠浅地帯にあり、喫水の深い船舶は接岸できない。しかも貿易期間や住居にも大きな制限が設けられ、商人たちの婦人や子供はマカオなどに居を構えていた。商人たちも、季節風の逆になる冬には広東の地から追い出されていたのである。
 本国の保護がないヨーロッパ商人は、清国のこの制限貿易に対抗できなかった。しかしイギリスだけは違った。すでにインド・シンガポールを支配していたイギリスは、海軍を派遣することができたのである。
 加えて麻薬である「アヘン」と中国産の茶の貿易、そしてそれに伴う清からの「銀大量流失」は戦争勃発への条件を揃えていったのである。

 この問題に、本格的に取り組んだのが道光帝(1820-1850)である。アヘン厳禁論をとる林則徐(17851850)を1838年欽差大臣に取り立て、この問題に立ち向かった。林則徐は短期間で失脚したため今日的な意味で成功した政治家ではない。彼の主な任務は「海防」であり、水軍の統帥権を持っていた。
 道光帝の林則徐への命令は「アヘン吸飲者を厳刑に処すべし」というものではなく、「広東に行き外国人に武力をもってこの問題を解決せよ」という過激なものであった。

  阿片消毀

林則徐は18393月広東に到着し、早速外国商人に「今後永久に阿片を持ち込まない。もし持ち込めば死罪とし、さらに貨物は没収する」という誓約書を取ろうとした。さらに外国人に「手持ちのアヘンを没収する」と発表した。 
 この措置に驚いたイギリス側の代表商務監督チャールズ・エリオットマカオから、直ちに広東に向かい324日到着している。林則徐は、これを絶好の機会ととらえた。「十三行街」を兵士千名で囲み、水と食糧を断った。エリオットは屈服し、全てのアヘンを引きわたすことに応じた。すべてのアヘンが提出されたのは、518日であった。合計1188トン20283箱のアヘン箱が没収された
 1839年4月22日から、この没収アヘンの焼却処分が始まった。この日は170箱、423230箱。24日は1400箱というように処分されていく。
 むろん火をつけて焼却するわけではない。林は広東から南へ
100キロの虎門に、50メートル四方の池を二つ作った。この池に海水を流し込んでは石灰をふりかけ、化学反応を起こしその後海に流して処分するという方法である。この作業は公開され、連日多くの住民が見学に押し寄せてきた。

この池が、広東省東莞市の虎門鎮に現在も残る。「硝煙池」と名付けられ、隣接して「虎門林則徐紀念館」が建っている。大規模な改修工事の最中であったが、当時の大砲などとともに立派な林則徐の像が建てっている。
 堂々とした威厳に、民族の誇りが漂っていた。中国側の「正義」を堂々と西欧に示したとして、やはり「愛国主義教育」の拠点という位置づけである。3月の十三行街からアヘン消毀まで、則徐は全て道光帝の許可を得たうえでの行動であった。 



  
            〈林則徐がアヘンを処分した池が現在も残っている  虎門の林則徐紀念館で  2010 12 31)

  
     〈アヘン箱 香港歴史博物館で 2010 12 28)          〈広州の沙面地区は、かつての十三行街にあたる)

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